ゼネコン倒産、南の島移住、宮崎帰郷、転職8回、メラノーマ(悪性黒色腫:10万人に1人のガン)闘病中、職場復帰、何度転んでも立ち上がる56歳のおとうさんです!死を覚悟してからは強くなった。みんなで楽しく生きよう!
 特養からデイサービスに移って3か月終了、自分で自分に課していたことがあります。
それは、見習い期間3か月です。

 初心忘るべからず、は昔からの自分のモットーであります。

 3か月間は52歳といえど、年上はもとより、若い人の中で働こうと、相手がバカだろうと、ただただ黙々と耐え忍び、教えを乞う、
3か月のうちにできるだけのノウハウを身に着ける、その努力を惜しんだら自分の負け、ノウハウを身に着けたらこちらのもの、一気に爆発してやろう、徹底的にやってやる、と臥薪嘗胆(がしんしょうたん)しながら精進してきたこの3か月でした。

 そして3か月終了。

 今に見ていろコノヤロー!精神を発揮する予定でしたが、いろいろありすぎて、また、スタッフの協力・はげましにあって、・・・素敵な職場に感謝、あるのみです。おバカなNGMも許してやろう!

 この職場が少しずつ好きになってきた。見習い期間の延長かな?

 
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【2012/06/30 21:23】 | 介護士
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 翌日から、生活習慣病改善のために酒・たばこ・肉類をやめ、ベジタリアンになった。

体調もすこぶるよく、頭の回転もこころなしか良くなった気がする。・・・・・・・・

 そんなわけないでしょ! 

 背中は痛いわ、朝起きると、空腹時でも腹がいたいわ、頭の働きがどんどん悪くなる。

ビールでも飲まなきゃ やってらんねえよぉ! てなわけで、開き直ることにしました。

 現在、自暴自棄の状態(ショック期)、これから(期待感)→ (絶望)→ (受容)→ (安定期)に入っていくのでしょうか。

 介護福祉士の試験にあったな。

 逆境は己のチャンスなり、、、千代先生(利用者さん)のノートには、いつもいいことが書いてある。


【2012/06/29 20:27】 | 上腸間膜動脈解離
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 さあ、運命の朝がやってきた。
出かけようとすると、妻がついてきた。

 7時半に医大到着、再診患者の列に並んで座った、13番目だった。
心臓血管外科にて待つこと3時間半、11時にようやく呼ばれ、
外科で一番偉い教授に説明を受けた。隣に弟子がついていた。

「上腸間膜動脈解離」です。大動脈から腸に向かう動脈が何らかのキズで竹の皮を剥くように5~6㎝さけている、瘤にはなっていないので手術の必要なし、もとにもどることもあるので様子見です。血圧調整、生活習慣の改善をするように、わかりましたか?以上です。・・・とのこと。

 手術の必要なし、この言葉で一安心。でも本当にこのままでいいのかな?
帰宅後、ネット検索してみた。この病気は珍しいらしい、

(手術した病院の報告例)
当院で最近3 年間に孤立性上腸間膜動脈解離の4 例を経験した.4 例とも腹痛を訴え来院し,
腹部CT で診断され,症例3,4 は瘤形成を認めた.症例1 は62 歳の男性で,腸管虚血を疑い緊
急手術を施行,内膜血栓摘出術および静脈パッチによる血管形成を行った.術後上腸間膜動脈
の血流不良を認め,再開腹し大量腸管切除を行ったが,DIC および肝・腎不全のため死亡した.
残る3 例は,51 歳,50 歳,65 歳の男性で,偽腔は一部血栓化し,末梢側の血流は維持され,腸
管虚血の所見に乏しく,血管拡張薬・抗凝固剤投与にて保存的に治療を行い,軽快退院した.
症例4 はその後中結腸動脈の血流低下により横行結腸狭窄から腸閉塞となり,手術を要した.
孤立性上腸間膜動脈解離は腸管壊死や瘤破裂の場合は緊急手術の絶対適応となるが,それ以外
では保存的治療および経過観察で良好な予後が得られることも多く,手術適応および術式の決
定には慎重な判断が必要である.

(某大学病院報告書抜粋)
大動脈解離を伴わない上腸間膜動脈(superior
mesenteric artery;以下,SMA)の動脈解離は比
較的まれな疾患である.しかし,ひとたび小腸虚
血を起こすと致命的ともなりうる重篤な症状を呈
してくる可能性もある.今回,我々は無症状にて
発見され,保存的治療にて良好な経過をとった
SMA 解離の症例を経験したので報告する

(別医大報告書抜粋)
孤立性上腸間膜動脈解離はまれな疾患で,腹痛
を訴え受診しても診断が困難な症例が多い.報告
例も少なく,自然経過も不明で,いまだ治療方針
も確立されておらず,診断後も治療法の決定に苦
慮することが多い1).

 結論、大手病院で手術して1人死亡、残り3人は保存的治療に変更、手術の方がリスクが大きいので、保存的治療で経過観察。というわけだな。ふふん、

 メラノーマにしても、今回の病気にしても、珍しい病気である、私はよっぽど珍しい人間らしい。

【2012/06/27 17:12】 | 上腸間膜動脈解離
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早い段階で、発見できた事が、良かったと思って。
生活習慣変えるって。簡単じゃないですね。

仕事も無理しない事です。利用者さんになりきってみる。って仕事も
新しい発見が。あるかも知れませんよ。

明日から、車イス乗車で、リハパン対応で。いきましょう(^.^)
トイレ誘導もしますよ。
着替え持参ならば。入浴もOKですが。
拒否はやめてください。
徘徊も。。。

でも。手術とか、入院じゃなくって。
安心しました。
サポートしますよ。
無理しないようにしてください。

今日は、フラダンスを、
利用者のNTさんが、踊ってました。
きっと。毎日が、キツイ日々で、
余命もあとわずか。
でも。
楽そうにしてました。

ただ、ただ、うれしかった。
この仕事をしていて
良かった。って思える瞬間でした。

フラを考案してくれたのは、Yさん。
続けられるように。
頑張らなきゃ。
ありがとう。



ほっとしました(^_^)
マンタスクランブル
yossyさんが安心していらっしゃるので、とりあえず安心しました。
お仕事無理しないようにしてくださいね!

マンタ

ムラヤマさん(仮称)へ
yossy610
 こらこら、私はまだ利用者にはなってませんよ、近いけどね、

 でも、今度利用者体験で入浴介助してもらおうかな、ウシシ。

 NGMのシャンプーで・・・

マンタさんへ
yossy610
 いつもありがとうございます。

入院・手術しないからには、また、燃えてきました。燃え尽きるまで無理します。(できるうちは)

 それが生きた証になるのなら!

なんちゃってネ、


コブクロきちがい
とうさん! とりあえず、今すぐ手術とかではなくて、ひと安心かな…??
しばらくは、飲みには行けないよね~(泣) イタ夫が一向に計画しないから、私が決めようかな~なんて思ってたけど。
特養の仲間たちも、みんな心配しているよ。そして、デイで頑張っている、とうさんとボスの姿を見て、嬉しいやら少し寂しいやら。たまには、特養にも遊びに来てね!!

コブキチさん
yossy610
 特養に例のバアチャンと散歩しに行きますよ!


Boss
笑いは話になって良かったです。

みんなが心配してくれてうらやましいですよ。
さすがとうちゃん

笑顔で仕事するのもいいね

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 午前中仕事して、午後からCT再検査、

朝起きた時から、腹がモヤモヤしている、検査のために絶食、

職場では仲間のスタッフが気を使ってくれて、

重労働しなくて済むように仕事の手配をしてくれた。ありがたい、感謝します。

今度は腎臓の裏が痛むようになってきた。(気のせいだと思う)

 デイの1日利用体験のご婦人がみえて、だんなさんの姿が見えず、心細そうにしている、(寄り添った、心の中で新規利用者になって下さい、と祈りながら・・・)

 お昼、さて医大へと向かった。
今日のCT検査造影剤は「イオパミロン」、注入直後から、まるでお風呂に潜っているように、頭から足まで全身が急速に熱くなった。 前回は6月15日、「オムニパーク」使用。あまり熱さは感じなかった。

 約15分でCT検査は終わり、水分をたくさん取って薬品を体外排出しなければ、とビールを買って帰った、(ついでに白霧島も1本:現在品薄のためおひとり様1本限り)。

 あとは、明日の第2外科受診待ち、です。・・・「つまづく」・・・もとい・・・「つづく」・・・




【2012/06/26 19:19】 | 上腸間膜動脈解離
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アタシが、宇宙旅行に行ってる間に。。
知らんかった(>_<)

ブログにも、お邪魔してなかったから。
今日、仕事して良かったの?

もう。禁酒!禁煙!
笑い事じゃなーい!
命を、自ら、縮めてもらったら。
困ります!

デイ革命を起こす予定なのに。。
無責任ですよー。。
アタシも一緒に禁煙。いや。分煙
しましょうか?

なんなら、副園長も誘って!

宇宙への旅立ち!
yossy610
 黄泉(ヨミ)の国へカウントダウンか?

なんちゃって、大丈夫ですよ。

デイ革命が成功するまで、私は死にましぇーん!

 体育会系の常識外れなBossを一人前にするまでは、死んでも死に切れませんよね!



Boss
一人前じゃつまらない!3人前にして頂かないと困りますっ
こっちは、その気なんですから!

テレビにも出るんでしょっ!

検査終わったら、早く戻ってきてください!

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 医大のDrから、明日の再検査CT予約の詳細の電話が入り、その場では出られませんでしたが、利用者さん全部を送ってから医大に折り返し電話しました。

 山と海の海岸線をバスで走りながら、電波がつながったり途絶えたりしながら、やっと、明日の1時半にCTを撮り、明後日には紹介状で血管外科を受診する、というメッセージが届きました。

 「血管外科」・・・初めて耳にする科、です。私は欠陥下か?(ギャグですよぉ)

 さすが、医大(偉大)なんでもあるんですねぇ。

心のフルエをおさえる鎮痛剤(焼酎)をロックで飲んでたら、また、オヤジになってしまいました。

 明日に備えてもう寝ます。MTZネエサンごめんなさい!


【2012/06/25 21:00】 | 上腸間膜動脈解離
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BOSSは誰でしょ

GRP_0008.jpg

【2012/06/24 12:06】 | 介護士
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Boss
懐かしい写真だ!
先々週、東京に行ってきたとき、真ん中のデカ男に会ってきました。
げんきな東京人になっていましたよ。

今日、パソコンのおねだりに、大手家電メーカーに家族で出向きました。写真好きの嫁さんは、パソコンには興味なく、プリンターに興味しんしん・・・で結局プリンターだけ新品になりました(涙)
俺は、パソコンが欲しいのだアア!!

この仕事についてからは、財布は、嫁が管理。
絶対、稼いでやるぞっ・・今に見ていろ!

そういえば、水曜日にボランティアに来ていただく、先生と打ち合わせしてきました。
1Hほど基本のヨガを受け、うちに利用者向けにあーだこーだはなしました。
瞑想、呼吸、心と体の調和・・・頭がクリアになったきがしました。とうちゃんやれば?


コブクロきちがい
とうさん!この前、私が夜勤明けの朝に会ったとき、何となくとうさん元気ないな…と思ってたんだ、私。無理をせず、体大事にしてね! 私も、仕事でもプライベートでも、ちょっと色々あって、へばってます(泣) メンタルヘルスケアをしたい!と言ってたけど、私自身がメンタルケア受けたいわ…。
ただいま3連休真っ最中!しっかりリフレッシュします☆

Boss 早くパソコン買わんね!
yossy610
 嫁のいいなりになっちょったらいかんよ。

自己投資、その分あとで回収すればいいっちゃが!

 へそくり無いとね、時は金なり、じゃが。

コブキチさんへ
yossy610
 インチキチェンチェイがメンケアしちゃろうか、・・・なんてね、早くジョークが言いたい!

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 TVを観ていたら、奇跡のクレア、特集をやっていました。

 下半身麻痺になって歩くのは不可能と診断されたイギリス人母親クレアが、愛娘(赤ちゃん)の歩こうとする姿をみて、「私ももう一度歩きたい!どうせ歩くなら希望は高く!」とロンドンフルマラソンに挑戦するドキュメンタリーでした。

 ロンドンマラソンには時間制限がありません。・・・毎日2~3Kmずつ走り、・・・17日目に、イギリスの騎馬隊と応援者に見守られながら、完走しました。

 夫と子供と支援してくれるみんなの力で目標が達成できた。クレアの感想でした。

・・・・・・・・・・俺バカだった。

 今日職場に行ったら、みんなが支えてくれて、送迎の運転禁止、サポート役、無理はするな!安静にせよ!等々涙が出るような指示、声援をしてくれました。

 昨夜、駐車場で側溝に脱輪して動けなくなったエスティマの救急救命士(うちのNS)が夜勤スタッフに救助された話も今月のお笑い大賞になりますが、そのMZナースが、夕方、私の足の血圧を測ってくれました。

 高血圧で毎月受診している私でも、足の血圧測定は初めてです。プロの看護師の目を初めて見ました。

 足180・腕140、血圧は足と手はほとんど同じだそうですが、足が高かった。スタッフのみんなも集まってきて、「今日はニシタチ(飲み屋街)禁止よ!」「絶対安静にしてなさい!」「早く入院して8月には復帰してね(NGM)困ります。」なんていろいろ指導を受け、とてもアットホームな会話に嬉しさを隠しきれませんでした。

 ありがとうみなさん。たった2か月半なのに、こんなに応援してくれる。・・・嬉しい限りです。♡ ♡ ♡

約束します、今夜はニシタチへは行きません。(本当は、どうせ死ぬならニシタチで、と決めていたのですが。)

 明日も安静にして過ごします。

来週の再検査に備えて、動脈瘤破裂しないように気をつけます。


【2012/06/23 20:59】 | 上腸間膜動脈解離
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無理なさらずに
8beats
自分の身体が一番大事です。
飲みに行きたいのも痛いほど分かりますが、
今はどうか安静にお過ごし下さい。

今を乗り切れば100回であろうが200回であろうが、
好きなだけ飲みに行けるようになるハズ。

あ、ドクターストップの可能性もありますが・・・。

いつもありがとうございます。
yossy610
 私はゼネコン時代に悪魔との取引をしました。

「出世と金が手に入るなら、50で死んでもいい」と、

 その結果、身体を大事にするどころか、死ぬほど働いて、出世と金を手に入れました。

 挙句に倒産、神が救ってくれたのかな、とも思いました。

 思い残すことは何も無い、と考えたりもします。

 ツケがまわってきたのかな。

8beatsさん、こんな変なオヤジもいるのです。

 いつもありがとうございます!


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 3時間後、Drから電話がありました。

「今回のCTは胸まででしたが、その下まで写っていたのが気になります。

胸の下の境目にカゲがあり、動脈解離の疑いあり、無視できません。

すぐにCTで調べたほうがよい、進行するので1か月後はまずい。

 月曜日にすぐにCT予約を取りますから、空いている日を教えてください!」とのこと。

ゲゲ、ネットで調べたら、動脈解離は大動脈瘤に発展し、死亡率が大変高い、らしい。

 うちのジイチャンも大動脈瘤破裂で死んだ。

いよいよ、潮時かな、・・・・・

【2012/06/22 20:12】 | 上腸間膜動脈解離
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希望ですよ
Boss
いつもより、明るく振舞っている様に感じたのは、私だけでしょうか?

病魔と闘いながら、みんなを明るくしている姿や堂々たるカムバックは、いろんな人が希望や元気をもらっていると思います。

夕方、仲間がみんな心配している場面にをみて、たった2ヶ月の関係のようには、見えませんでした。気丈に振舞っている本人に向かって、冗談が過ぎたのは、申し訳ありませんでした。

笑い話になることを祈っています・・・・。

いいねー(千代さん語録より)
yossy610
 たった2か月、・・・BOSSへ

本当にいい仲間ができましたね。

2か月ですよ、本当に、奇跡ですね!

勇気もらってますね!

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 先週金曜日に検査したCTの結果を、今日の午後4時に電話で聞く予定でしたが、デイの送迎時間にかかり、つい忘れてしまいました。

 5時過ぎ、あっ、と思いだし、医大にTEL、DRは診察中のため折り返し電話します、とのことで携帯の番号を伝えましたが、2時間過ぎてもかかってきません。

 まあ、何でもないから、連絡ないのでしょうが、ちと気になります。

やっぱ肺ガンとメラノーマ転移の報告ですからね、・・・もうちょっと待ってみますわ。

 ヤダネェ・・・ビールが美味くないですわ・・・

【2012/06/22 19:09】 | 上腸間膜動脈解離
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シェラトン
シェラトンHOTELのエントランスです。イイナ♡

【2012/06/20 13:13】 | 植物
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8beats
植物を眺めるのはいいのですが、
どうしても私が世話をすると枯れてしまいます。
愛情が足りないせいでしょうか・・・。

やっぱ愛情でしょうね
yossy610
私の植物に対する愛情は妻以上です。

それでも、枯れる時には枯れてしまいます。

その時は、私の代わりに枯れてくれたのだ、

と思っております。

 植物の癒しは妻の癒し以上です。

葉っぱに触ると、葉っぱの気持ちが伝わってきます。

 自分がのどが渇いて眠れないときには、いずれかの植物が水を欲しがっている時、真夜中でも探し当て、水を与えるくらいです。・・・かな?





8beats
う~ん、妻だけで大変なので、やはり私には植物は向いていないようです。


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 昨日は台風の中、スキルアップ研修会に参加させていただきました。

宮崎の誇るシーガイヤ・シェラトンホテルのコンベンションセンターに約100人が参加し、デイサービスの生き残りをかけた、「選ばれるデイ」の講習と演習がありました。
 
 講師はものすごくおしゃべりな、熊本のオバちゃんでありました。

講師の当たり外れはいつものことですが、大盛況とまではいかないものの、小盛況ですかな。肝心なポイントがぶれていて、皆を引き付けるカリスマ性に欠けていた感があります。

 しかしながら、本日の成果は集まった同志との意見交換会でありました。

4月の介護保険法改正で、3-4・5-7・8-9の選択を余儀なくされ、人員削減の結果、小規模に移った事業所さんが多数おられました。

 デイサービスの内容をお互いに紹介しあっているうちに、
嚥下体操の話となり、「パタカラ」や「パンダノタカラモン」等オーソドックスなものが主流を占める中、うちのデイでは英会話クラブの活用で、ABCを利用した「P・T・A・K!」を発声して滑舌を良くし、嚥下体操に利用している、と少々誇張して発表したところ、非常に関心を持たれ、英会話クラブの運営の仕方の質問が相次ぎました。

 DDP(どんどんパクれ)されたかも・・・

 クラブ活動の話をペラペラ話していたら、「あなたを見ていると、スタッフみんながヤル気を持って仕事されているのがよくわかります。」と絶賛の言葉を頂戴いたしました。

 他の事業所からは、管理者や生活相談員が多く参加されておりましたが、皆さんスタッフのやる気のなさに困っているようでした。

 試行錯誤を繰り返しながらも、進化しつつある我がデイは、生き残れるし、宮崎のフラッグトップも目指せるんじゃないか、って思いました。

 報告書作りに2時間もかかってしまいましたが、意義ある研修でした。

スタッフのみなさん、宮崎県中の事業所が注目してますよ。みんなでガンバロね!

【2012/06/20 05:56】 | 介護士
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Boss
研修お疲れ様でした。

同日の夜に、私も通所事業所連絡協議会に参加しました。
他事業所は、悩んでいるし、試行錯誤していました。

やはり、自事業所の取り組みを話すと、「すごい!」と言われました。
やる気と笑顔に満ち溢れていますよね。
スタッフもですけど、思いっきりやれせてくれている法人にも感謝です。

フラの先生がやってきました!!ユニークで楽しい先生で、楽しい時間でした。みんな腰がフラフラでした・・・マジでっ

椅子に座って出来るパターンも教わり、また一つわくわくの材料がふえましたよ・・マハロ~

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 先日、危うく職を失いかけるほどのケンカをしたYさんに、今朝「おはようございます、先日は弟子のくせして生意気なことを言って、すみませんでした。」と話しかけると、・・・材料の木材を指さして、「一緒にいいもの作ろうな!」。

 完全にケンカのことは忘れていらっしゃいました。

 「そうですね、私は未熟ですから」・・・・「俺が最後の仕事をしてやる、金はいらん、昼飯だけ食わせろ!」


和解が成立しました。しかし、事情を知った、奥様からは「もう、できないから、木工は辞めてもらって結構です、ご迷惑をおかけしてすみません。」

 しつこいのが取り柄の私ですから、なんとか、きっかけ・役どころ、を探し出し、落ちないように、維持・向上できる方法を探りだし、希望を見いだせたら、と新たに気分を変えた今日でした。

 本日、デイミーティングがありました。売り上げは12パーセント増、利用者は維持、介護保険制度改正により7-9制度採用のための売り上げ増、・・・

 普通の経営者は、改正による売り上げ増は当たり前、利用者と稼働率の平行は努力不足、と言います。

 優れた経営者は、改正に伴って、利用者もスタッフも維持できていることはスンバラシイ!よく、維持してくれた。経費は全く変わってないのだから、みなさんの頑張りの賜物です。ありがとう! というと思う。

 個人負担が増えれば、顧客数は減るのが経済です。それを維持できた。残業もゼロ。

素晴らしいスタッフががんばった! ・・・スタッフは家族です。

 来月のミーティングの際のBOSSのセリフに期待してますよ!

ワクワクさせるリーダー、期待してマッセ!

【2012/06/18 21:18】 | 介護士
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-
若干。。熱すぎる!BOSS(^-^)
体育会系の匂いプンプンですね!

あつっ。( ̄^ ̄)
でも。
この人。みんなと一緒なら。

どこまでも
アタシ。ついていきます!!

きっと。この熱血さを。
うざっー!って思う日も。
来るだろうけど!

アタシも、この仕事に関しては、
負けないくらい、密かに。
熱いかもっ。

台風が、寝てる間に。通過しますように。。。


Boss
スタッフみんなの前向きな姿勢に、ただ敬服してしまいます。
絶対、みんなが頑張った成果を見せたい!
そう思っています。

最後の爆笑・感動エピソードでNさんがいつも最後のお風呂かも・・・「あたしは、ここがすきやとよ」の話の時、涙ぐまれている所を見て、この仕事いいなと思いました。

「冬は必ず春となる」・・・

先日、小学校のミニバレー大会が無事終了しました。PTA体育部長として、ひとつ良い経験をさせて頂きました。友達(相手は思っていないかも)も増えたぞ!!

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山吹
父の日は先日、東京の兄夫妻が帰省した際に会食をしました。

宮崎観光ホテルの料亭「山吹」です。

料理

階段で父がつまづきそうになったのを、左後ろにいた私が見事、介助、仕事柄、この人はこの階段でつまづくかもしれない、と予見しておりました。 転んで骨折したら終わりです。気をつけないとね。

体操教室で元気に訓練していた父も80を超えてから、急速に低下、今83歳、そろそろヤバイ、と兄と相談・・・ゲンキに長生きしてくださいませ。

野草の寄せ植え
父の生家(小林市)の山で採ってきた野草を寄せ植えしてみました。(ヤツデ・シダ・蘭・きれいな草花)

涼しげです。毎日霧吹きしてます。

暴風に耐えるハイビスカス
 現実の今日の天気は台風4号の影響で、大雨と暴風が吹いてますが、雨・風に耐えてハイビスカスが咲きました。

 ワンコは毎日の雨で散歩ができず、ところかまわず家中オシッコをばらまきながら私と追いかけっこをしています。

 奄美で育ったので、野生犬、しつけに失敗しました。

【2012/06/17 11:33】 | 植物
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頑張っているようですね。
りゅうげつ庵
コメントありがとうございます。介護の仕事を頑張っているようで、素晴らしいと感じました。僕の親父も75歳をすぎ、80も目の前です。父の事を本当に思っていらっしゃるのが、文面に表れています。応援しています。

りゅうげつ庵さん、ありがとうございます
yossy610
 元気な時は気にもしなかった父親ですが、平均寿命をオーバーしてきてから、亡くなった時のことを考えるようになりました。

 運命・宿命は変えられませんが、自分の親に対する「思い」は少しずつ変化してきました。

 後悔先に立たず、ともうしますが、後悔しないように、日々何らかの親孝行をしていきたいと思っております。 別に大したことをするわけじゃなく、顔見せ、電話だけでも大喜びする父母に、お金じゃなく、気持ち、だけでも伝えたいと思っております。

 これからも、応援よろしくお願いいたします。

追伸・・・私たちもいずれ、こうなるんですよね!

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 今日は利用者のYさんとトラブル発生!

 Yさんは元指物師で木工をしたがっていたので、材料を用意し、図面を見せ、「この位置に線を引きましょう」というと、「墨壺がなけりゃ線は引けん!」・・・「線は私が引きましたので、ノコで切って下さい」・「電動回転盤がなけりゃ切れん!」・・・「お前は段取りが悪い!こんなもんできるか!」・・・ノコを投げた。

 別の利用者さんが「俺がやるよ!」ギーコギーコとノコをひきはじめた。Yさんは「曲がっちょるが、へたくそが!」・・・別の利用者さんもノコを投げた。

 私も本気で切れかかっていた。そこに、YMさんが愛の手を、「そんげ大きな声を出すと、ほかの人がびっくりしちょるやろうが、やめんね!」・・・救われた。もう少しで職を失うところだった。

 送迎が終わって、NSのTさんといろいろ話をした。Tさんは私と同じ歳、「やっぱり感謝の気持ちが大事よね、神様にお願いするだけじゃなくて、感謝しなくちゃね♡今日のことは忘れて、人生楽しまなくっちゃ♡ご先祖様は必ずみてるよね♡」

 毎朝、毎昼、毎夕、山の神・土地の神・海の神・天の神・道の神・川の神・青島神社の神・小戸神社の神・ご先祖様に、「今日これから仕事に行ってきます。どうぞ事故が起こりませんように、事故を起こしませんように、無事に家に帰りつけますように、いつもありがとうございます、感謝します、ついてるついてる、許します、」と唱えている私としては、とても共感が持てまして、「そうだよね~、感謝の気持ちだよね~!」と同調し、励ましあったのでありました。(別に右翼ではありません、純粋に拝んでます。)

 YさんのおかげでTさんと共感できた。

 帰宅の車中で、素直に「Yさんありがとうございました。」と感謝の気持ちを声にしました。

【2012/06/16 20:31】 | 介護士
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早速
マンタスクランブル
遊びに来ました!
これほど波乱万丈のおとうさんでも平常心保つことって難しいんですね。
おとうさんの失敗から得た教訓を私も共有させていただきますね。
身体のためにもストレス抱えないようにしたいですね!

マンタさん、よろしくね、
yossy610
 さっそくのご来場ありがとうございます。

平常心を保てなかったから、

波乱万丈になったのかも・・・


-
人間だもの。。
感情を抑えられない時もありますよね。

みんなですよー。
その人の事を思って、色々と考えてる分
余計にですよ。

その思いに応えてくれる
どころか。
ばっさり斬られる(>_<)

NSのTさんは、ほんわかしていて。
ナイスアドバイスを、いつも
頂戴してます。
アタシの中の、グロイ感情を、抑えてくれて
包み込んでくれる人ですね。
鎮静作用のある人です。

それにしても。。
Yさん、何もできなくなった自分に
対する、腹立ちをセーブできないんでしょうね。
なんとかしてあげたい。
Yのお父さんの気持ち。
十分わかってますよ。

また、みんなで、はなして。
あの手、この手で。いきましょうよ!








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 医大の検査を受けてきました。

 8時半に本館2階で血液採取、

 9時に本館3階で耳鼻咽喉科の首リンパ節エコー検査、「1年間診てきましたが大きさは13ミリで変わらず、もういいでしょう、たぶん良性です。今日で終わりにします。」 やったぁ、一つ終わり。

 9時半、本館3階の皮膚科で患部検査、腎臓結石の痛みを報告、県病院への紹介状を書きますとのこと。「CTを受けた後でまた来てください。多分今日中に結果がわかりますよ」

 10時半、別館2階でCT検査、造影剤で身体が熱くなりながらもグルグルまわる機械を見ていた。

 しばらく病院内を散歩しながら、時間つぶしし、再び皮膚科の廊下で待機。

 11時半、ようやくDrに呼ばれ、紹介状をいただく。「CTの結果はまだ出ていませんので、1週間後に電話して下さい。それともこちらから電話しようかな、次回は12月14日ですね、何もなければ。」

 というわけで、検査結果? は持ち越しとなりました。(ナンカ微妙な会話だったな)



 

【2012/06/15 14:43】 | ガン・メラノーマ
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8beats
お疲れ様でした。
検査結果は持ち越しのようですが、
結石についてはどうなったんですか?
かなり痛いと聞いていますので、心配です。

こんばんは!
コブクロきちがい
とうさん、頑張りすぎは良くないよ! 時には甘えることも大事☆ デイでは、ボスをはじめ、素敵な仲間に囲まれてるじゃん!!
良い結果が出るよう、祈っています!!
近いうちに、ホントに飲み会しようね!

結石はしばらく様子見です。
yossy610
 医大のDr.に聞いたところ、鎮痛剤を出すことしかできません、との返答、

 今のところ、痛みが消えたので、しばらく様子見して、休日を利用して、紹介状をいただいた県立病院に行く予定にしております。

 医大ではメラノーマに関する治療以外は地元でやって下さい、とのことですので・・・

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 ロキソニンを服用して、職場へいざ出陣!

朝、起きた時、あまりの激痛に床に倒れこんでしまいましたが、這い上がり、今日一日がんばろう、というか、持たせよう、と必死に職場にたどり着きました。人間というものは面白いもので、職場の緊張感に包囲されると苦痛でも笑顔が出てくるものです。

 営業経験から来るもので、人前では笑顔で過ごせます。妙なことに痛みも感じません。

いざという時のボルタレン挿肛も考えましたが、やらずにすみました。

 さて、明日はいよいよ医大受診です。半年ぶりのCT撮影・・・吉と出るか凶と出るか・・・

あまり気にはしておりませんが、結果次第で今後の人生が変わる!

 吉と出れば、ますますパワーアップして仕事に励む、

 凶と出れば、職を失う、(ガン患者を雇う会社はほとんどありません。・・社会問題にもなってます)

ま、いいか、どっちでも、現在の心境です。   つづく・・・


【2012/06/14 20:41】 | ガン・メラノーマ
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アタシ、なーにも、知らなくって!!
夕方、初めて知りました。

ごめんなさい。
気づかなくって!!
入浴介助。。
アタシが、入れば良かった。
後悔です。気づく事が、
出来なかった自分に。。ごめんなさい。

無理しすぎですよ。
きつい時、困った時は、
お互い様じゃないですか!

この仕事は。チームワーク!
そして、家族ですよ。
アタシは、家族と思って。
仕事してますから。
一人でも、欠けたら、成り立たんし!

デイは、みんなが、いるから。
成り立ってます。
ありえない!ミスをする人も
いるけど。
そんな人も、いないとねー。

皆が、完璧だったら。
面白くもなーい!

皆がサポートしてくれるから。
アタシも、助けられながら。
頑張ってます。

明日の検査!
どんな、状況であっても。

利用者さんと一緒に。
待ってますよ!

家族 いい言葉ですね
yossy610
コメントに思わず涙がでてきました。

ありがとうございます。

 家族なんですね、私はいつも孤独と闘ってきたような気がします。

 デイは強い母と、病弱な父とやんちゃ坊主と、静かなネエチャン、ワケわからん娘、しっかり娘たちの大家族。だったんだ、それに、大勢のバアチャン、ジイチャンたち。

 病院いってきます。
 

 


Boss
とうちゃんが居なくなったらどうしよう・・・・

素直な気持ちです。

祈っています・・・・


8beats
痛い時は痛い、しんどい時はしんどいと言わないと。
自分の身体が一番大事ですよ。
ご利用者様も無理をしながら仕事をしていると知ったら、
絶対悲しまれますし、心配されます。
ご利用者様の為にも無理をしないで下さい。

ありがとうございます。
yossy610
 こんなに多くの人たちに支えられて、とてもとても感謝しております。

 無理して人のためにならないこともあるんだな、とつくづく感じております。

 甘えよう、っと。

 自分も無理せず、人にも無理させず、支えあうことでしょうね、

 営業マンだったせいか、人の笑顔を引き出すことばかり考えていましたが、人は私の笑顔を期待しているのかもしれないな、と気づきました。

 

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昨日朝、膀胱に激痛が発生、また結石だなと思い、ポカリをごくごく飲んだら、トイレで石がコロンと出てきた。

1ミリほどだった。前回は1.5ミリくらいの尿管結石だったのでとても痛かったが、今回は素直に出てくれた。

精密検査の結果、石は5つ見つかっているので、残り3個だな、と冷静に判断。

ところが、残りの石は腎臓にある。・・・午後から背中が急に痛くなってきた。

定時まで我慢し、自宅へ直行、すぐ鎮痛剤を飲み、水分をたくさんとった。湿布をして、すぐ寝た。

朝起きた。まだ、動くと激痛が走る。

明日は医大のCT検査の日だ、今日一日乗り切れれば・・・

【2012/06/14 05:20】 | ガン・メラノーマ
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 クラブ活動、いろいろな個性の利用者さんがおり、能力もバラバラで、木工作をどう進めていくか思案中でしたが、考えても仕方がないことに気付く。・・・今朝2時に目覚めたので、とりあえず2×4(ツーバイフォー)の椅子作りの図面を描いてみた。

 いける!多分? とにかく実行してみよう。何もしないよりは何かして失敗したほうがいいじゃないか!

開き直りの域に達したぞ!  あれ?もう3時半だ、もう一眠りしよう。

みつおの「失敗したっていいじゃないか、人間だもの」の額が外科手術室の壁に飾ってあった(笑)木久蔵より、

【2012/06/13 03:18】 | 介護士
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 いままで書き綴ってきたエッセイ(私の自叙伝:いつかは遺書になるであろう)を1日がかりでようやく掲載できました。読むのには3時間くらいかかると思われます。おヒマな時に、右下「カテゴリ」の中の「エッセイ」を読んでいただければ幸いです。

 本にしたくて、自費出版しようかとも思いましたが、99.9%失敗するとの情報があり(金もかかることだし)、それなら、無料で興味のあるみなさんにだけ読んでいただこうと、ブログに載せました。

 第1章から第9章までありますので、第1章から読んでいただければよくわかると思います。


第1章 最低人間だった20代(仕事は最高、家庭は最低人間)

第2章 転勤(東京から広島へ)

第3章 妻の子宮内膜症(泣けますよ!)

第4章 倒産(会社更生法になったら・・・転落人生のはじまり)

第5章 南の島移住(奄美大島の生活体験記)

第6章 転職・転職また転職~介護の仕事につくまで

第7章 離婚~復縁までにいたる道のり(ワンコのおかげです!)

第8章 ガンになった。(自分でも泣けます!涙なくして読めません!)

第9章 これからの生き方(ガンになって生まれ変わった!・・・歳のせいもあるかな・・・)

 これからも、精力的にインチキ・エッセイストとして書いていこうと思います。(内容は本物ですので)

 どうぞ、ヨロシクね!

【2012/06/12 13:06】 | エッセイ
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コブクロきちがい
とうさんのエッセイ、まだホームページだけをされていた頃に読ませていただきました。 翌日早番だというのに、深夜まで読みふけり、翌日の早番は睡魔との戦いだったな~(笑)
インチキちぇんちぇい(先生)のエッセイ、これからも楽しみにしています!
ボス…東京デートいいなぁ~! 東京……高校の修学旅行で行き、元彼氏と旅行で行ったわ(泣)

コブキチさんへ
yossy610
 ご愛読ありがとうございます!

ホームページからブログに移行しましたので、ヨロシクね。

 中村マサトシの「思い出のクリフサイドホテル」「心の色」がラジオ深夜便から流れてきています。
(NHK朝3時)なつかしい青春の歌ですね。

 みんな青春があったね!

 


8beats
読ませて頂きました。
私のような若輩者が簡単にコメント出来るような内容ではありませんが、
一つ一つの事に全力で打ち込んでおられる姿勢を感じると共に、
自己反省致しました。
もう一度書いておきますが、くれぐれもお身体をお大事に。

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 過去に書いたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第9章 【これから】



 七転び八起きといいますが、私の人生八転びになってしまいました。

 転び続けて気付いたことは、水戸黄門の主題歌はとてもイイナということです。人生楽ありゃ苦もあるさ、涙の後には虹も出る。後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け。歩いてゆくんだしっかりと、自分の道をふみしめて。

 苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。これからも何度も転ぶことでしょう。そのたびに起き上がらなくてはなりません。動物は一度倒れれば死が待っています。人間だけに与えられたチャンスなのです。しかし人間も一人では生きていけません。助け合いがなければ人も一人で死んでいくのです。私は多くの人たちに支えてもらってやっとここまで生きてこられました。私も困っている人にはできるだけの気持ち、思いやり、誠意、助け、をこれから実践していこうと思っています。まず手始めは身近な妻へのやさしさだと痛感しております。

 ただし、思うは易く、行うは難し。妻には、毎朝、今日も私に優しくしてね、と声かけしてくれるように頼んでおります。私は忘れっぽいので繰り返し声かけしてくれないと朝には忘れているからです。

 忘れる、ということで思い出しました。これも入院中の病院で早朝に悟ったことですが、年齢と体力の復元力にかかる日数は比例しますが、年齢と心の回復力は反比例する。ということを新発見しました。筋肉痛は年をとると二日後・三日後に出てきますが、心の傷は年をとると次の日には治っています。30年ほど前に聴いた、中島みゆきさんの歌にありました。

  歳をとるのは素敵なことです、そうじゃないですか

  忘れっぽいのは素敵なことです、そうじゃないですか

  行ったり来たりの繰り返し

  心のはてまでついてくる

  忘れるよりほかないじゃありませんか

 たしかこんな詩だったと記憶していますが、最近になってようやく意味が理解できるようになりました。歳をとるほど苦が累積してきます。過去の記憶力が良すぎると過去に押しつぶされてしまい身動きできなくなって心の病にかかってしまうことでしょう。だから忘れていきましょう。そうすればまた前進していけるのではないでしょうか。どうせ未来にも苦労が山ほど待ち受けているのですから。

 



【2012/06/12 12:18】 | 第9章 これから
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過去に書いたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第8章 【親不孝 親孝行】



前に自分の両親は嫌いだと書きましたが、自分が年をとり、また両親が平均寿命を超えてくると次第に考えが変わっていくのを感じます。親も苦労が絶えず、心労が重なり、考え方も変わってきていました。特にガンになってからは先に逝くかもしれない「命」のことをいろいろ深く考えるようになり、今まで親不孝ばかりしてきたことが頭から離れなくなってきました。

また、老人施設で働くようになり、認知症の老人との接触も多く、近い将来自分の親も、私のことを分からなくなってしまうのだろうか、寝たきりになって介護が必要になるのだろうか、呆けるまでになんとか思い出作りをしておきたい、「親孝行 したいときに親は無し。」というが、まだ間に合う。出来る限りの親孝行をしてみよう、私がいまだかつて成し遂げていなかった目標はそれでした。

特にお金に関してはそうとう親不孝を重ねてまいりました。父の会社が倒産したころ、ちょうど兄の大学受験が重なり、明治大学に合格していたにもかかわらず兄に投資する金が無く、地元の国立宮崎大学に入学せざるを得ませんでした。しかし2年後私の受験の際には、一度目は失敗し浪人を強いられてしまいましたが、東京の予備校に通わせてもらい、翌年、私立の中央大学に合格した際にはそのまま入学させてもらいました。毎月の仕送りや帰省の飛行機代も全部払ってもらい、卒業時には母から大学ノートを見せられました。5年間でかかった費用を克明に記載してあり、総額は1300万円でした。出世払いしてもらうからね、と真面目な顔で申し渡されましたが、未だに一銭も返しておりません。

奄美大島に移住する際も、父より封筒を渡され、中身は百万円入っておりました。いつか恩返ししますと頭を下げましたが、未だに一銭も返しておりません。

宮崎に帰り、マンションを購入した際にも、頭金300万円融資してもらいました。

離婚した際も、飲み代と生活費に困り百万円借りました。こればかりは借用書を書き、ボーナスの際に10万円ずつ返済してきましたが、まだ40万円残っています。



親不孝をしている間は、親は息子のことが心配で、呆けることが無いのだ、と自分勝手な理論をかまし、やりたい放題やってまいりましたが、父が足を引きづりながらよろよろと歩くのを見るにつけ、母の頭髪がだんだん薄くなっていき、顔のしわが増えるのを見るにつけ、自分の勝手な理論は成立しないことを感じました。

善は急げ、両親に残された時間はもう少ない、まずは、死ぬ順番を間違えないこと、自分は両親の死を見届けてから死ぬこと。金は返せなくとも(返そうという気持ちは持っていますが)、これだけは守ろうと誓いました。

次に、毎日電話をかけ、声かけして無事を確認すること。たまには実家を訪問し、私の元気な姿を見せること。ある日、両親が出かけているときに、玄関前の庭の草取りをして、土を耕し、レンガを並べて、自分流のガーデンを作りました。花をたくさん植えて南国情緒ただよう花壇は、帰ってきた両親も大変喜んでくれて、感謝されました。手間賃としてまた一万円もらってしまいましたが、親の喜ぶ顔はやはりうれし恥ずかしいものです。その後も季節ごとに花の苗を買ってきては植え替えをして楽しんでもらっています。

それだけが今できる親孝行です。

最近になってようやく私も父親らしくなってきました。親の苦労が解ってきました。息子ももう24歳になりましたが、今までは、「親は無くとも子は育つ」と、放任主義で何も親らしいことはしてきませんでした。自分が年をとったときに、息子は親孝行してくれるだろうか、期待はしておりません。おのずから気付くまではできないものです。自分はさんざん金で苦労をかけてきたのに、息子には残す金は無い、と宣言しています。ごめんね。こんな父親で。



【2012/06/12 12:11】 | 第8章 親不孝・親孝行
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今まで書き綴ってきたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第7章 【ガン】



 介護の仕事にもようやく慣れ、ベテランの域に入りかけ、今の職場で(平成23年当時)来月7月一日で4年目を迎える、という6月1日に、地元の有名な皮膚科を受診しました。

それまで気にもかけなかったのですが、右腰部にいつのまにかほくろができていて、痛くもかゆくもなかったのですが気付かぬうちに2センチほどになっていました。お尻に近かったので湯上がりに三面鏡でしみじみ眺めるまで全く気にしておりませんでしたが、黒色にちょっと茶色が混ざっており気持ち悪かったので行きつけの医院に高血圧の薬をもらいに行った際、なんとなく相談してみました。先生もながめながら、ただの加齢によるものでしょう、とおっしゃっていたただきましたが、念のため専門の皮膚科に紹介状を書いておきましょうと言ってくれました。3日後に紹介状が届いたので、宮崎でも朝早くから並ばないと午前中に診てもらえないお医者さんを朝7時に並んで訪問したのです。

高名な女医先生に診ていただいたところ、これは外科的な治療を要するかもしれないので、県病院を紹介しますとのことでした。唖然としながらも、ことの重要性にはまだまだ気付かず、なんやねん、という感じで紹介状をいただいて帰りました。

六月六日に県病院に紹介状を持参し、受診し、基底がんの可能性があるので月末に手術で生体検査をしてみましょうと、日時まで決めて帰りました。ところがその夜8時頃に、自宅に県病院の先生から電話がかかってきて、ひっかかるところがあるので、明日朝もう一度来院してくださいとのことでした。

翌日もう一度診てもらい、悪性黒色腫(メラノーマ)の疑いがあり、ここで手術しても検査は宮医大で行うことになるので、二度手間にならないよう宮医大を紹介します、といわれました。ようやく私自身もアレッ?と思い始め、もしかして俺ガン?と頭をよぎりました。高血圧の人はガンにならないはず、と思っていたし、親戚にもガンはいなかったよなぁと見回してみました。もう仕事どころではありません。微熱でも大騒ぎする私ですから、ガンとなったらどうなるんじゃ。死ぬのかな、生命保険はどうなっていたっけ?親より先に逝くのか、親不孝者だな、でも悔いの無い人生やりたい放題やってきたから自分としては思い残すことはない、墓はどうする、金が無いから奄美の美しい海に散骨するか、などと一晩考えました。

次の日、県病院の紹介状を持って宮崎大学医学部付属病院に行きました。紹介された教授からは加齢によるものだから心配いりませんよ、と笑顔で診断していただきほっとしました。が念のため、生検しましょう、とその場でほくろの上下1センチずつ幅4センチ長さ6センチほど若いドクターから切除されました。

一週間後の6月15日、結果を聞きに医大に行きましたが、水曜日で妻もパートが休みだったので一緒にドライブがてら向かいました。車中では悪性だったらどうする?なんて笑いながら運転しておりましたが、教授の診断は「悪性でした。」の一言。・・・なんとなくホッとして笑顔と半泣きをこらえながら先生の話を伺いました。顔は引きつっていたと思います。

これで休める、身体を休ませることができる、と安心したのです。というのも、4年にわたる介護職の仕事で腰痛やストレス・不眠・責任感と、本当に介護は必要なのか、という葛藤が積もり積もって、薬の量が次第に増えていき、安定剤2種類・睡眠導入剤4種類・降圧剤2種類・鎮痛剤と胃薬・その他ビタミン剤等、薬漬けの身体になっており、最近では坐骨神経痛・高血圧・肩こり・頭痛に加え、幻聴まで聞こえるようになっていたのです。

例えば、夜寝ているときに足元に添い寝していた犬が「ねむいんだよぉ」といったり、夜中に何かのものすごい力で右足を引っ張られて脂汗を書きながら必死に抵抗したり、ベッドに仰向けに寝ている自分に何者かが圧し掛かって来て身動きのとれない金縛り状態になったりして、夜寝るのが怖くてたまらなく、薬に頼って眠ろうとしていたので、それも多量の薬をのんでやっと寝付けるぞ、と心に言い聞かせながら布団に入る毎日でした。

メンタルクリニックにも毎月相談に行き、事情を説明すると、幻聴というのは自分の心の声を自分で発しているのだそうです。そういえば、夜勤の際にも、仮眠室でよく、「おい」とか「起きろ」「おはよー」と、どすの聞いた声をかけられ、目が覚めることがたびたびありました。まわりにはだれもいないのです。仲間のみんなも体験したことがあるので、幽霊の仕業だろうといえわれておりましたが、実は、起きなくちゃいけない、という使命感が頭の中にあって、自分で声を出していたのでしょう。

また、ホームドクターを受診した際には毎回点滴を施行していただき、酷使している身体をだましだまし使っていたので、4月のある日、先生からいわれました。「あなたの身体は悲鳴をあげています。」「このままではいつ職場で倒れるかもしれませんよ。」「悪いことはいいません、明日にでもハローワークに行って下さい。介護の仕事はすぐにやめてください」「いつ死んでもおかしくない身体です」。いつ死んでもいいや、職場で死ねるなら本望だ、なんてかっこいいことを考えておりましたが、実際は少し自信喪失し、怖い、という観念も芽生えてきていました。

だから、悪性のがん、と告知された時には、これで正々堂々と仕事を休める、神様からの休暇の贈り物だ、と一安心したのでありました。ガンといわれて喜んだ。尋常な精神状態ではありえないことですよね。ここまで追い詰められていたのですね。とにかく休養がとれることになりました。

それからは手術を前に、PET‐CTを撮っていただき、転移の可能性を調べたり、血液検査、レントゲン、呼吸量の測定、など事前検査をしてから手術に向かいました。若い先生でしたが、とても親身になって、私の疑問にはすべて納得がいくまで時間をさいて説明してくれました。この先生なら命を預けようと決心がつきました。

手術は、前に生検手術をした部分のさらに上下1センチずつ広く切り取るというもので合わせて合計6センチ幅が切除されることになりました。長さも13センチ程切除です。同時に転移を調べるために右そけい部をセンチネンタルリンパ節検査というリンパ球を採取する手術も施行するということでした。すべて先生に任せて、心配はありませんでした。

手術はうまく済み、リンパ節への転移も認められませんでした。

翌日には尿管の管も外せて少し動けるようになりましたが、腰からぶら下げているドレーンという管から少量ずつ浸出液が出てくるので、首から袋に入れてぶらぶらさせながら少しずつ歩く練習を始めました。動けるようになると、早く退院したいものです。寝たり起きたりしていたもので、夜が全く眠れなくなりました。夜中の1時に目が覚め、散歩もできないので、カーテンで仕切られた自室の椅子に座って、じーっと考え事をしながら夜明けを待ちました。ラウンドしてくる看護師さんたちは暗闇で椅子に座っている私を見ては「眠れないんですか?」と優しく声を掛けてくれました。

2週間の入院予定でしたが、耐えられず、先生に現状を訴える手紙を書いて、患部の消毒を自分でおこなう仕方を教わり、通院を前提に、10日間で退院させていただきました。

十日ぶりに自宅へ帰ると、大事にしていた観葉植物も妻の水やりのおかげでみんな無事でした。犬も元気にしっぽをふりふり迎えてくれました。

一ヶ月ほどで職場復帰できると心積もりしていたのですが、先生からの説明でこれから3ヶ月間インターフェロンの治療を行うとのことでした。インターネットで抗がん剤治療の副作用がひどく現れるのを知り、絶対に受けないぞと決心し、断るつもりでいたのですが、職場に赴き、その旨伝えて職場復帰させて下さいと嘆願しましたが、再発防止のためにもやるべきことは全部やってから帰ってきてくださいと諭され、どうしても仕事がしたいのなら、就労許可証をもらってきてくださいといわれました。

よし、許可証をもらって仕事復帰するぞ、と意気込んで七月二十七日に医大にいくつもりでしたが、前日の夜、一晩中考え、もし再発したらステージが進み生存率も一気に減ってしまうし、職場としても爆弾を抱えた人間を働かせるのには抵抗があるだろう、まわりに迷惑をかけながら働くのは自分としても本意ではないと考え、当日先生ともう一度話し合ってみようと決意しました。当日は妻と一緒に医大に行き、不明な点や副作用について質問を投げかけ、その都度先生は丁寧に応えてくれました。あとで時計を見ると、一時間半の時が経っていました。結局、抗がん剤治療を受けることに同意し、病院を後にしました。

治療は十日間毎日インターフェロンβを注射し、三週間自宅療養し、また十日間入院し注射を打って三週間休むというクールを3回繰り返すというものでした。職場には休職願いを提出し、治療に専念することにしました。先生との信頼関係も出来ていたので心配は全く無くなっていました。

8月中旬から十日間、1回目のインターフェロン注射のための入院が始まりました。患部の周囲4箇所にフェロン2CCを分散して注射するというものです。静脈注射とは違い、皮下注射のため、痛みはかなりのもので、叫びたいのを必死にこらえて、ときどき涙が出るほどでした。副作用は、風邪と同じような症状が出るようで、微熱と関節痛、めまい等がありました。病院にも慣れてきたので不眠症もなくなって、夜は良く眠れました。リストバンドを右手にはめておりましたので、どこで倒れても識別できるため、安心感があり、すべて病院に任せようという依頼心で安心していたので、安定剤も睡眠薬も必要ありませんでした。施設内はすべて行動規制もなくフリーでしたので、朝9時の注射が終わるとすぐに散歩に出かけて体力の回復を目指して徘徊しておりました。

9月中旬から2回目の入院、フェロン注射。

10月中旬から3回目の入院、フェロン注射。これで3クール終了。退院です。

季節は夏から秋に変わり、パジャマも夏物から冬物になっていました。

累計30本、120箇所のフェロン注射の副作用は、吐き気、味覚の喪失、血圧低下によるめまい、手の指の角質化、頭痛などが現れました。これは事前に調べてあったのであまり気にしなくて済みました。そのたびに主治医が対応してくれましたし、看護師さんたちも理解してくれていたので、守られている、という安心感だけで充分乗り越えることができました。また、同室にいた患者さんたちも皆、皮膚がん、白血病といった人たちばかりでしたので、お互いに情報交換しあって、なぐさめ合っていました。

ガンになった人たちは、一定の苦悩の時期を過ぎると、心の整理がつくのか、異口同音に、「ガンになって良かった。」と思う日が来ます。私自身もガンになって良かったと思えるようになりました。死と直面し、涙し、家族や仲間の励ましに感謝し、自然の美しさをあらためて発見できるようになり、すべてのことに素直に感謝できるようになりました。

病院のまわりは緑が多く、ひときわ大きな木がありました。「私が死んでも、この木は残る。木は動くことはできなくても、季節の変化に耐え、いつまでも人々を見守ってくれる」、と思うと、自然に手を合わせ、みんなの幸せを祈るようになっていました。宗教にはこだわっていませんが、自然崇拝の気持ちが沸いてきました。

ガン患者の多くが、転移をし、入退院を繰り返し、希望と絶望の淵に立ち、それでも笑顔を忘れず、仲良く、感謝しながら亡くなっていきます。残された家族を気遣いながら。

壮絶な戦いの結果、生き延びる人たちも大勢います。失ったものよりも、残されたもののありがたさをかみしめ、生まれ変わったように笑顔で前向きに生きようとします。25歳以下のガン患者で作っている「STND UP」という冊子を病院で見つけ、読みました。仲間同士で情報交換しながら、交流会を通じて、励ましあい、新しい人生の意義を見つけ、一生懸命生きていく姿に、涙なくして読めませんでした。また、その堂々とした姿勢に感動を覚えました。

入院中に私が気付いたことは、医者や看護師、ヘルパーさんたちに「世話されている」のではなく、「守られている」ということでした。みんなが私を守ってくれている、と思うと、自然にありがとう、という言葉が出てきました、そして、いつかは私がみんなを守る、守りたい、という気持ちが芽生えてきました。本当に「ガンになって良かった」と思います。

ただひとつ気になったのが、日野原先生の百歳特集のテレビ番組でした。末期ガン患者の緩和ケアを取り扱ったものでしたが、先生の優しさ、寄り添うケアで患者に最後の力を引き出し、笑顔で感謝しながら死んでいくというものでした。一般の視聴者には感動ものでしょうが、ガン患者がこの番組を見たら、やっぱり最後は死ぬのだな、と暗い気持ちにさせてしまいます。先生の姿勢にはとても素晴らしい思いやりが感じられましたが、番組の構成に問題があるのではないでしょうか、多くの視聴者にはすばらしい企画ですが、ガン患者にとっては見たくない、見せたくない番組でした。



【2012/06/12 12:03】 | 第7章 ガン
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今まで書き溜めてきたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第6章 【介護のお仕事】



 そんなこんなで宮崎に帰ってきた家族三人と犬一匹でした。

 就職先は、島からネットで応募して内定をいただいた地元の住宅メーカーに決まっていたので、さっそく出社し、営業を始めました。ゼネコン時代の大企業相手とはちがい、個人の顧客を相手にセールスするのは至難の技でありましたので、毎日めげながら弱音を吐きながら、必死になって働いておりました。3ヶ月以内に一件受注しなければクビだと言われて、あきらめそうになった頃営業テクニックが飲み込めてきたので、期限内に一件受注することができました。ホッとしたのもつかの間で、その月の給料の支払が二日遅延することになったので、この会社は資金繰りが危ないと察し、自ら辞表を提出いたしました。あとで同僚に聞くと、翌月から給料が払えず、3ヵ月後に倒産、社長は家族で夜逃げしたそうです。

 次は、宮崎のハローワークで紹介を受け、一回の面接で合格した労働組合の事務職でありました。ゼネコン時代に東京支店(新宿 従業員数500人)で組合の事務局長をやった経験もありましたので、少しは自信を持っていけそうでしたので、何のためらいも無く飛び込んだのですが、現実は少々違っておりました。振動病や塵肺の病気にかかった人たちの実証をとり、裏づけをしたうえで労働基準監督署に労災を申請するという業務であります。加害者側から被害者側に180度転換したわけです。わがゼネコンが加害者であったと言う人たちも多く、熊本での塵肺裁判の際には、被害者側弁護士が私の過去を知って、名刺を差し出し、ぜひ証言者になって欲しいと要請を受けました。

 しかしながら、被害者の皆さんも全員が本当の病気を発症していたのか、グレーな部分も多く、勝ち取った労災保険料のかなりの割合を組合が手数料として徴収していたのも不信感があり、だんだん自分の正義感に自信が持てなくなってまいりました。認定を受けた人たちは動かないはずの手で高級車を乗り回し、昼はパチンコ、夜はフィリピンパブに入り浸りの毎日です。ごり押しで認定を勝ち取った業績が認められてからは、事務職はほとんど無くなり、次期書記長を頼むと見込まれ、監督署相手に直談判したり、100人集会と称して、旗と横断幕をみんなに持たせて、監督署を取り囲み、ハンドスピーカーを手に、「○○さんを認定しろー!」とシュプレヒコールを一時間叫びまくる、という役割になってきたのです。皆さんどうですか?できますか。私は仕事とはいえ、いやでいやでたまりませんでした。よくもまあこの仕事をハローワークが斡旋したものです。6ヶ月で辞表を提出し、後日ハローワークに実情を説明しに行きました。窓口担当者も実態までは知らなかったと同情してくれて、退職理由はすんなり了承され、次の仕事を斡旋してくれました。

 次は外資系の損害保険会社です。思い出したくも無いので詳しくは書きませんが、保険会社のやり口というものをよーく知りました。簡単です。お客さんの心配不安をさんざんあおっておいて、一気に、大丈夫ですよ、この商品に入れば、と落とすのです。統計上契約期間内に死亡する人は5%にも満たないので、会社は丸もうけです。駅前の一等地に保険会社が乱立しているので一目瞭然でしょう。セールストークも2ヶ月福岡で缶詰にされて、毎日毎日教官から罵倒されながら必死に暗記しました。ああいえばこういう、すべてのパターンが身につき、宮崎支店初の大口契約を1本取って一年半で辞表を出しました。勝ち組は独立して店を出し、高収入で宮崎の飲み屋街で大盤振る舞いをしているようです。私は負け組を選びました。

付け足しておきますが、実際に事故に遭われた方々は、保険に入っておいて本当に良かった、と大変感謝されましたし、わたしも後日、ガンになったときにはがん保険に入っておけば良かったと後悔することになるので、やはり保険は必要です。 

次は大工見習いであります。

 大学卒業という肩書きは、今や何の意味もないと悟った私は、手に職を付けることを考え始めました。そしてハローワークでたまたまポリテクセンターの木工技術取得コースの募集に目を留め、すぐに応募いたしました。これもまた試験があり、倍率は2~3倍でしたがうまくクリアーすることができ入学式を迎えることができました。

 六ヶ月間の研修と実習をしながら、最終的には木造家屋を1件完成させられるだけの技術を身につけることが目標でありました。20人の仲間たちは20代から50代の男性と女性といったいろいろな世代が集まっており、同じ目標のもと互いに協力し合っているうちに全員が親しい同士になっていきました。月に一度は居酒屋で乾杯し、お互いの情報交換しながら有意義な時間を過ごした記憶は今だに忘れられません。とても大事な仲間たちです。

木材加工、箱や小物入れ造り、大工道具の手入れや、かんなの刃とぎ競争などして楽しい毎日でした。木造家屋造りは、CADで図面を引きながらの本格的なもので材料加工から組み立て、フローリング・内装仕上げまで色々な技術を教わりながらついに完成することができました。みんなうれしくて、感動し、屋根に登って記念撮影をいたしました。

 卒業前の2ヶ月前からは就職活動も始めなければなりません。募集要項が掲示板に張り出され、次はどんな会社に勤めようかな、職種はどうだろうと仲間同士真剣に探して、面接に向かったりしていたのです。同時に訓練校からも、人材紹介情報が宮崎の企業対象に行われておりました。ある日教官から呼び出しを受け、ある税理士事務所から、面接の要請があったことを伝えられました。めったにない逆指名です。木工コース訓練生でしかも簿記3級しか持っていない自分になんで指名がきたのだろうと思いながら、面接を受けにいきました。

 実は私はその頃には、自分の人生これからはホームセンターに就職して技術を生かそうと思い、就職に有利になるように通信講座でDIYの資格取得を目指していたのです。

 面接の日には教習を休んでよいことになっていたので、半年ぶりに作業着からスーツに着替え、指名のあった税理士事務所を訪問いたしました。行ってびっくり、見てびっくりの事務所でありました。南国庭園に白亜の鉄筋コンクリートビル、従業員も20名という宮崎でも一番の税理士事務所でありました。何で私が・・・。

 優しい笑顔と鋭い目つきのとても紳士的な所長さんに直接面接していただきました。私の履歴書を見て、趣味の観葉植物や南の島移住経験、1級船舶操縦士の資格、大手ゼネコンでの営業経験、付録の簿記3級、生保・損保の資格等が所長さんの目にとまったようでした。話しをするうちに気に入っていただき、その場で内々定をいただき、笑いながら、試験を受けてみるかね、といわれましたが自信がありませんと応え、試験は免除していただきました。2回目の面接で内定、3回目で合格をいただきました。訓練校の卒業を待たずに就職がきまり、すぐに税理士事務所への出勤がはじまりました。卒業式の日だけ休みをいただき、卒業証書を交付していただきました。

教官からは、こんな逆指名での優良企業への就職は初めてだと大変喜んでいただき、頑張るよう励ましをうけました。

 肩書きは渉外担当となっておりましたが、一般の職員と同じように顧客の帳簿監査や決算書作成もありましたし、何でも屋であり、庭園の管理や、リゾート地にある研修所の管理や、お客様を招待したときのバーベキュー段取り係り、プレジャーボートの清掃・運転、傾いた企業の資金繰りや建て直し、等々の仕事をこなしていきました。年末のクリスマスパーティーでは宮崎で名門の宮崎観光ホテルでの準備から司会まで任され、大好評をうけました。それもそのはず、ゼネコン時代には、起工式・上棟式・竣工式などの式典が繰り返し行われ、そのたびに司会をしておりましたから、司会には自信があったのです。また、先生は南九州税理士会の会長をされていらっしゃったので、お客様も百人以上の規模で開催されておりました。

 ある時先生に、こんなに投資を続けていたら、事務所が傾きますよ、と真剣に進言申し上げると、私は若い頃、結核で何年も患っていた。一度死んだ人間なんだよ、一からスタートしたのだから、失敗すればまた、一から始めればいいのさ、と淡々としかも鋭い目つきで応えられました。

 事務所はつぶれるどころか、それからもどんどん拡大路線に戦略を展化していき、福祉施設を経営したり、レストランの経営、マンション経営と、成功をおさめるにいたいったのです。ものすごい気迫の先生でした。また奥様も苦労を共にされてきており、従業員に対する気配りも大変立派なもので、夫婦揃って人格者であり、今でも尊敬しております。

 給料も、宮崎ではトップクラスに入るほどで、忙しさを除けば申し分ない職場でありました。

 しかしながら、そんな生活もまたまた破綻する日がきたのです。

 1年ほど経ったある日、妻から別居の話しが出てきたのです。息子が高校を無事卒業し、航空自衛隊に入隊し、落ち着いてきたのをきっかけに、いままでの私に対する苦労が一気に爆発したようです。もう、私の面倒は見たくない、顔を合わせるのも嫌だ、お金もマンションもいらないから、すぐに出て行きたい。と最後通牒を突きつけられました。埼玉から義父が飛んできてなだめたり、私の母が土下座して謝ったりしましたが、どうしようもありませんでした。妻は自分で自分の怒りを増幅し、身体ひとつで出て行きました。私も短期が出て、離婚届に印鑑を押すよう求め、すんなりと離婚は成立しました。

 あまりに突然のことで、私の頭は、裏切りや、反省や、寂しさや、不安、怒り、開き直り、もどかしさ、などの葛藤が渦巻き、何も手に付かなくなってしまいました。心療内科を受診し、急性パニック障害と抑うつ症状と診断され、全治2ヶ月を言い渡されました。やっとの思いで先生に手紙を書き、退職願を朝早く誰もいないときを見計らって事務所に出向き、郵便受けに提出させていただきました。5月の早春の頃でした。先生、みなさん、本当に申し訳ありませんでした。その後、後始末にどんなに苦労されたことでしょう。本当にすみませんでした。

 それからは毎日マンションに閉じこもり、安定剤と睡眠薬と酒の毎日が続きました。死んだらどんなに楽だろうと、死ぬ方法ばかり考えたり、家のローンをどうしようとか、生活費をどうしようとか、現実的なことを考えたり、もうどうにでもなれ、と自暴自棄になり、毎晩飲み屋街に出向いてはスナックで身の上を話し、同情を引いたりして荒れた毎日を過ごしておりました。

 3ヶ月ほどそんな生活をしながらも、おなじみのハローワークに通い始め、ある日目に付いた老人施設の統括マネージャーという職種に興味をひかれ、応募することにしましたが、医者の就労許可証が必要ということで、証明書を書いてもらい、受験しました。私の一歳年上の女理事長でしたが、またまた合格してしまいました。どうも、第一印象が良いようで、いつも合格してしまいます。自慢話になってしまいますが、長年の間に身についた、落ち着きと、笑顔が相手に好感を与えているのだと思います。

 9月から出勤し、小規模多機能の家とデイサービスの両施設を担当することになりました。2級ヘルパーは奄美で取得していましたが、実践は始めての経験でしたので、両施設長(女性)からは目の上のたんこぶに映っていたようで、毎日注意ばかり受けておりましたが、できるだけ二人を避けてうまいことこなしておりました。利用者の老人たちも人生の大先輩でありますので、学ぶこともたくさんあり、レクレーションをしたり、運動、体操、輪投げ、ジェスチャー、玉入れ、お絵かき、大正琴、歌あり、笑いあり、涙ありの楽しい毎日でした。夜勤もするようになり、一晩中耳をすませ、小さな音にもすぐ反応し、認知症の利用者が徘徊や、転倒、失禁等していないか、また、熱発はないか検温しながら、神経をすり減らしながら、よく働きました。百歳近いおばあちゃんと添い寝も何度もしましたし、ごついおじいちゃんに暴力を振るわれたりもしましたが、利用者さんに何事も無く朝を迎えるその瞬間がとても好きでした。

 そんな幸せな日々も長くは続きません。ご存知のとおり、またまた不幸はやってきます。

 理事長と秘密の交換日誌を交わしていたのですが、ある日、その日誌を施設長に盗み見られ(女の社会は怖い怖い)、私の給料が施設長より1万円多いことが発覚してしまい、両施設長は理事長室に直談判に行ったのです。猛烈な抗議を受け、理事長も二人を失うよりは、私の降格を決断せざるを得ませんでした。翌日からはヘルパーとして勤務することになり、今まで以上に厳しい仕打ちをうけ、何かするごとに注意ばかりされておりました。それでも、利用者さんの笑顔が見たくて、仕事は続けておりました。

 また、ヘルパー仲間のおばちゃんや若いお姉ちゃんとも仲良くなり、信頼関係は日増しに良くなっていったのです。連携もうまくいき、送迎や、レクも覚え、おむつ交換や入浴介助、車椅子の散歩、気分転換のドライブなど楽しみも増えていきました。そして、ヘルパーの抱える悩み事も次第に理解できてきて、重労働の割りに賃金が安かったりいわゆる6k、きつい・汚い・危険・給料安い・休暇とれない・あとひとつなんだっけ、そうそう、結婚できない、がありました。

 ヘルパーみんなの意見をまとめ、ある日、ミーティングの日に、数ある問題点を文章にして施設長に提案いたしました。共同作業においては上から目線を止めて共労のケアに務めましょうという趣旨の問題提議でした。最下層のヘルパー職からの提案がよっぽど気に障ったのか、翌日すぐに理事長室に呼ばれ、どういうつもりか詰問され、組合いつくりと勘違いされ、運営主体である東京の会社からも吉田を排除せよとのお達しがあったようです。退職願いはすぐに受理します、と理事長から鬼の形相で申し渡され、翌日が夜勤だったので、他の人に迷惑を掛けないように夜勤までは勤め上げて、翌朝会社を去りました。7回目の転職も終わりました。9ヶ月でした。

 

 話は変わって、別れた妻の話しになります。

 家を飛び出した後、アパートを借りてミニダックスのワンコと暮らしていました。なぜか実家には帰らず、宮崎に残ったのです。とにかくパートだけでは生活できないので、昼はパン屋、夜はコンビニのアルバイトをしていました。家庭裁判所で名前を旧姓にもどし、携帯の番号も変えたので、連絡不能になりました。

 福岡の息子とは連絡をとりあっていたので、息子を通じて、犬に逢いたいと伺いを立てました。迷った挙句に、近くの公園で逢わせてもらいました。しっぽを振って喜ぶ犬に涙を我慢するのがやっとでした。妻は相変わらずそっけない態度で、30分ほどでじゃあね、と帰っていきました。

 それから、月に一度だけ犬に逢わせてくれるようお願いし、1年間妻と犬に会いに行きました。アパートにも30分だけ入れてもらえるようになりましたが、それはそれは狭くて汚い生活で、隣の声はつつぬけだし、窓を開ければ外からのぞかれるし、ベランダもガラクタが放置してあり、布団は敷きっぱなし、ヨーグルトのカップをたばこの灰皿代わりに使っているような、まるで、上京しただらしない大学生の部屋のようでした。あまりの悲惨さと、生活に疲れきっている様子に私も耐えられなくなり、自責の念が沸いてきたのもあり、家に帰ってこないか?と提案しましたが、妻はかたくなに拒絶しました。

 春の訪れと共に、凍り付いていた妻の心も少し溶けかかってきたのか、お試し同居を1ヶ月してみることになりました。帰ってきた妻の第一声は、「やっぱり私が選んだマンションはいいわ」でした。久しぶりに夫婦と犬一匹がそろいました。お試しは功を奏し、復縁することになりました。その時ちょうど退職願を出したばかりでした。

 次の職を探してまたハローワークに通い始めました。妻は昼だけのパートにもどり、家賃の1万円と食費を負担することで契約が成立しました。残りはローンと電気・ガス・上下水道・電話・固定資産税・NHK受信料・ビール・焼酎代・マンション管理費・親への借金返済・等々私の負担です。もしまた離婚することがあるかもしれないと思い、財布はそれぞれが自己管理することに決めたのです。早く仕事を探して職につかないと貯金も底をついてきました。

 前職で介護の仕事に興味が沸いてきたので、福祉関係の仕事を重点的に探しました。もうすぐ50歳です。体力の衰えは気力で頑張りぬこうと固く決心いたしました。

 デイサービスや小規模多機能型の方が比較的楽だよ、とのヘルパー仲間からのアドバイスはいただいておりましたが、あえて厳しい特別養護老人ホームを選びました。宮崎でも一・二を争うきつい職場として有名な○○○○○という特老ですが、応募した2時間後に面接に来てくれということで、急ぎスーツに着替えて、パソコンに入れてあった履歴書をプリントして施設に向かいました。福園長が面接してくれ、1週間後に合格をいただきました。

 それからの3日間、3週間、3ヶ月は激務に次ぐ激務で、初めての夜勤明けには死にそうなほど疲れ、頭が真っ白になり、めまいはするは、思考停止にはなるはで、今日限りで辞めようとさえ真剣に考えました。しかしながら、ここで使い物になれば、どこの施設でも使える、という噂を思い出し、逆にここで辞めたらどこでも使い物にならないと奮起してなんとか一日一日を耐え抜いて頑張りました。百人の利用者を抱え、介護度も4~5と、噂以上に非常に厳しい職場で、しかも、女社会でありますので、私も「寮母さん」と呼ばれながら、トイレ介助、おむつ交換、食事介助、見守り、レクレーション、おやつ介助、洗濯、寝たきりの人の体位交換、病人の世話、など次第に慣れてまいりました。

 50歳を迎え、若い人たちにも負けないように、気力で働き、体力をカバーしていきました。初めのうちはやはり毎日注意ばかり受け、辞めた方がいい、とか、やり方が雑でなっていない、とか、もうダメだと何度思ったことでしょう。でも、それを支えてくれたのもやはりヘルパー仲間でした。年の差はもう関係ありません。ケアという同じ目標に向かって質の向上をはかるのですから、ベクトルは同じです。だんだん仕事も覚えて、仲間とのコミュニケーションも良好になっていきました。特に若い人たちからは、「とうちゃん」「オヤジ」「クソじじい」と親しく呼んでもらえるようになり、力を与えてもらいました。なぜかしら、利用者のおばあちゃんたちからも好かれるようになり、頬ずりされたり、握手してもらったり、キスしてもらったりで、楽しみも増えてきました。



 介護福祉士受験



 こうなると、老人福祉は自分の天職かもしれないと考えるようになり、勉強をし直しはじめました。通算3年が経っておりましたので、介護福祉士を目指し、1月の試験に備え、8月頃からユーキャンのテキストと過去問を主体に受験勉強を始めたのです。しかしながら51歳になっていた私には、仕事と勉強の両立は非常に困難なものでした。覚えたそばから忘れていくのです。日勤の日は疲れ果てていますので、勉強はおもに夜勤明けの日の夜中に集中してやりました。

 平成23年1月の筆記試験は鹿児島で実施される予定でした。前泊を希望しておりましたが、宿が予約で一杯だったため、朝一番の特急列車で行くことにしていました。その前日のことです。鹿児島との県境にある新燃岳が突如噴火したのです。噴火による噴煙で交通手段は寸断されてしまいました。受験して落ちるならともかく、試験場にたどり着けずに落ちるのは耐えられません。

 当日、万が一電車が不通になることを想定し、その時はタクシーをチャーターしてでもたどり着いてやる、と心に決め、懐に10万円を用意し、宮崎駅に向かいました。電車は動いておりました。無事鹿児島の試験会場に着いた頃には珍しく雪が舞っていました。寒さに弱い私のことですから、ホカロンと女性用防寒タイツを履き、寒さ対策は万全のはずでした。ところが試験場に入ると、暖房が弱いせいか、はたまた効いてないのか、冷蔵庫のような寒さだったのです。手足をさすりながら試験開始を待ちましたが、その間も身体が冷えていくのが感じられました。試験開始と同時に右足が痙攣を起こし、狭い机の下で一生懸命伸ばしたり、曲げたり、もがきながら午前の部95分を闘いぬきました。寒さのあまり、便意と尿意が代わる代わる襲ってきて、とうとう昼ごはんは抜いて午後の部に臨みました。午後は百十五分です。水分を摂らなかったのに尿意は突然やってきました。必死にトイレを我慢して、うつろな状態で試験問題に取り組みました。

 さんざんな思いをして帰途につきながら、また来年もこんな思いをしなくちゃならないのかなぁ、とか神様受からせてください、とか祈る気持ちで帰宅したのでありました。施設の仲間からは「とうちゃん頑張って」と1メートル四方の大きな応援色紙をもらっていたので、お守りに持ってきておりましたが、みんなに合わす顔が無いなと、がっくりきておりました。深夜にネットで自己採点したところ去年のボーダーを下まわっていたので、八割がたあきらめていたら、しばらくして合格通知が届きました。とても嬉しかったです。職場にも合格おめでとうの張り紙がしてありました。

 次はいよいよ実技試験です。DVDの過去問を繰り返し見ながら、とにかく声かけ、そして、患側をまちがえないこと、と先輩方に指導を受けながら、また、実技の模擬試験を施設で理事長・園長先生・副園長先生・主任・副主任・ケアマネ・OT・看護部長の見守る中で試された上で、いろいろアドバイスを受けて試験に挑みました。まだまだ寒かったのですが、職場の制服を着ると、気持ちも引き締まり、とにかく目線の高さを合わせ、声かけを心がけ、残存能力を活かしながら、問題を一つ一つこなしていきました。5分の持ち時間に5秒ほど足りませんでしたが、今回は受かったような気がしました。職場の模擬試験の方が緊張しました。3月末に介護福祉士国家試験合格証書が届き、早速登録いたしました。

 これからの私の人生は福祉だ、と決めました。2年後にはケアマネに挑戦するぞ!



 と意欲満々で意気揚々と、順風満帆な介護人生を楽しみ始めたときに、やはり、不運がやってきました。

 ガンになりました・・・・・・・・・・・・・。

【2012/06/12 11:57】 | 第6章 転職・転職・・
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やおき
yossy610さん
初めまして

この記事一気に読んでしまいました
色々と大変だったようですね

私はパワハラや労使問題で転職を繰り返し
現在休職中の身
(ウチの妻も呆れていることと思います)
営業一筋でやってきたやおきは
現在も営業職で職探し中
営業は天職だと思っているので
これからも頑張っていきたいと思っています。
yossy610さんも頑張ってくださいね。

やおき様へ
yossy610
 コメントいただき嬉しいです!

 やおき様も七転八倒されていらっしゃるようで(笑)

 なるようになるさぁ~ですよね!

 ネコちゃん可愛いですね、お互い頑張りましょう!

 今後ともよろしくお願い致します!

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  いままで書き溜めてきたエッセイを少しずつ紹介していきます。


 第5章 【南の島への移住】



①カーフェリー

真っ暗な海を渡る風は、目指す南の方から吹いてきて、デッキに一人でたたずむ私の不安をやさしく洗い流してくれるような心地よいぬる風でした。

二〇〇二年六月四日、鹿児島港を夕方出航し、一路奄美大島へ向かうカーフェリーで、家族三人とキエリインコのピー子との新しい旅立ちです。出航の際、見送りの人や、見送られる人、涙や、励ましの光景を見ながら、やはり船の旅はいいなぁ、と胸にジンジン染み渡りました。私たちは宮崎ですでに両親との別れを済ませていましたので、見送ってくれる人はだれもいません。

この日はサッカー日本代表の何かの試合があり、船の中ではお客さんが皆、ビール片手にテレビ観戦していました。また、乗客の中には奄美や沖縄の方が多く、酔っ払って話しているのを側で聞いていて、まったく分からなかったのも初々しい気分にさせてくれました。

ワンカップの日本酒を妻に手渡し、二人で静かに飲みました。中三の息子は、やはり、興奮していたのか、船の中をあちこち散策していたようです。



高血圧の私は、朝方三時頃にはもう目が覚め、着替えもしてなかったので、そのままデッキに出て夜明けを待ちました。そのうち暗闇の中に灯台の明かりが見えてきて、やがてポツリポツリと街頭や民家のあかりが見えてきました。奄美大島です。いつの間にか、息子が隣に立って無言で一緒にながめていました。妻は低血圧ですので、起きてくることはありません。熟睡中です。

六月五日の水曜日、朝五時二十分、奄美の名瀬港に到着しました。内地(シマンチュは本土のことをそう呼びます)から新しい先生が赴任して船に乗っていたのでしょう、港には父兄や生徒たちが、長さ十メートルもありそうな横断幕に「歓迎 ○○先生 ようこそ○○学校へ」と書いて大勢で出迎えしているのがデッキから見えて、またまた感動ものでした。

いよいよ家族三人で島への上陸です。



②移住一日目(六月五日)

さかのぼる事一ヵ月前、私は五月の連休に家探しのため、単身、飛行機で奄美に降り立っていました。その時、レンタカーで島の半分はドライブしていたのです。インターネットで笠利町を知り、役場の方にアポを取っての来島でしたが、なかなか住まいがみつからず、たいへんでした。

当時の日記を見ると、毎晩、ビジネスホテルで落ち込んでいたようです。ただし、島の美しさには感動ばかり書いてありました。エメラルドグリーンの海を見て、絶対にここに住むぞ、と決意をあらたにしました。結局は、役場の方の頼み込みで、笠利町節田集落のど真ん中にあった浜田オジの家を借りられるようになりましたので、嬉しくて、嬉しくて、その夜は名瀬の繁華街に出て、黒糖焼酎を一本キープしてかなり飲んだものです。

というわけで、私は島の地図が半分は頭に入っていたものですから、フェリー上陸から奄美に上陸したらすぐに、家族にきれいな海を見せてあげようと、車で大浜海浜公園へとむかいました。名瀬から十分ほどの公園に行く途中の上り坂、左車線には「亀」、追い越し車線には「うさぎ」の絵が描かれており、ほのぼのとした、そして来てよかったなぁ、という感慨ひとしおで、ひとりはしゃいでおりました。早朝だったこともあり、浜辺にはまだ誰もおらず、我々だけで美しい海を見ながら、家族三人で新たな生活の第一歩を踏み出したのです。妻と息子も初めて見る植物や海の美しさに感動しておりました。

港のジョイフルで朝食を済ませ、これから永住する笠利町へ向けて車を走らせました。今日はすることがいっぱいです。大家さんへの挨拶、息子の赤木名中学校編入手続き、笠利町役場への挨拶、その他、明日から始まる引越しの準備等々。頭の中はいっぱいではありましたが、なんとなくゆったりとした気分で、それでもどんどんこなしていけました。

お会いする島の人たちはみなさん笑顔で、どこから来たのか、どこに住むのか、興味津々で聞かれましたが、広島から来て、節田集落の浜田オジの家を借りた、と説明すると、だれもが納得してくれました。浜田オジは、島ではかなりの有名人だったのです。息子もとても不安だったと思いますが、ピンクでふちどられた鉄筋コンクリート三階建ての赤木名中を見て一安心したようです。

スケジュールをこなした後、時間がかなり余ったので、島の北部を一周することにして、蒲生崎、笠利灯台、土盛海岸、奄美空港とドライブし、「ばしゃやま村」というリゾートホテルでお茶にしました。ここは島でも珍しくきれいに整備された場所で、入り口には大きなガジュマルの木が太い根をおろし、見上げると左右に大きく枝を張って、緑がたくさんの木陰をつくってくれているのでした。石垣にはたくさんのブーゲンビリアが咲き乱れ、ハワイ島のヒロを思わせるような雰囲気で、とても気に入りました。海辺を見下ろすカフェテリアで、妻がようやく安心した様子でアイスコーヒーを飲んでいました。

引越しは明日なので、今日は国民宿舎の「あやまる荘」に泊まります。〝あやまる〟は謝るではなく、岬の形が〝彩毬〟(あやまり)に似ていることから名付けられているそうです。宿舎に着いたら、大島紬の正装をした島の方々が大勢いて、結婚式か何かが始まるようでした。私たちは静かに夕食を済ませ、明日のために早く寝ることにしました。宴会の音がうるさいかもしれませんよ、と仲居さんにいわれてましたが、一日の疲れがどっと出て、遠くの波の音を子守唄に、深い眠りにつきました。



③移住二日目(六月六日)

 なんということでしょう、朝早く目が覚めてカーテンをあけて窓の外を見てみると、夜明け前の朝焼けの赤やブルーや黄色や色々な色を放つ空と海が目の前に壮大に広がっているではありませんか、いままで一度もみたことのない光にあふれた大自然の美しさに感動した私は、すぐに家族を起こして、みんなで眺めていました。私たちの新生活を祝福してくれているとしか思えないような瞬間でした。

 幸せ気分で朝食を済ませると、いざ引越しです。節田の家に早々に到着したら、いきなり驚いてしまいました。近所の人たちが大勢で家の掃除をしに来てくれているではありませんか。また、家の裏の方では、浜田機動の人たちがトイレの工事にとりかかっていました。浜田機動とは大家さんの浜田おじが社長をしている土木建設会社です。ぼっとん便所だったのを水洗式に改修してくれているのです。こんなありがたいことはありません。南の島の情の厚さの初体験でした。

 引越しの荷を積んだトラックが到着すると、やはり皆さんが手伝ってくれて、あっという間に運び込みは終わってしまいました。あとはダンボールの開梱するだけですが、このダンボールの量が半端ではなく多いので、まあ南の島での生活を楽しみながらゆっくり片付けていこうと思っておりました。ちなみに広島から奄美まで四トン車2台分で約五十万円ほどかかりました。昼には浜田婦人がおにぎりやら珍しいおかずやらをたくさん差し入れしてくれて、おいしくいただき、たくさん余ったので、夕食の準備をする必要もありませんでした。

 また、向かいの奥田さんの奥様(マサエおば)からは畑でとりたてのネギと、玉子を十四個いただきました。檻の中の養鶏場ではなく、海岸近くの広い敷地に、柵とネットを張っただけの場所にニワトリをたくさん放し飼いにしているそうです。この玉子は割ってみると、今まで見たこともないような黄身が盛り上がった玉子で、いかにも新鮮で、栄養満点まちがいなし、というような玉子です。グルメ番組でよく食材さがしに地方まで行くのを観ていましたが、まさしくこれです。その後も、玉子が無くなりかけると、毎週のように、届けてくれました。もちろん無料です。奥田さん宅は奥田建設という建築会社をやっており、個人住宅の請負業が主体のようです。

 水洗トイレは配管のズレに試行錯誤しながらも、昼すぎには完成し、使えるようになりました。職人さんと話してみると、トイレの工事は初めてだったから、手こずった、と信じられないようなことをいわれました。プロではなく、しろうとさんだったのです。島ではなんでも自分たちで作るから心配いらない、と説明を受け、妙に納得させられました。あとから分かったことですが、この集落では、トイレの水洗化はまだ一割程度で、ほとんどがぼっとん式なのです。集落は台風の風の影響を少なくするために、密集して家が建っているので、浄化槽を埋め込む敷地がないためらしいです。あと金銭的な面もあるかと思います。

 夕方になると息子が赤木名中学校から帰ってきました。6キロほどの道のりを自転車で通学です。あとになって息子に聞くと、さとうきび畑の間の道を海に向かって駆け下りていくのが最高だったと懐かしく思い出していました。また、シマの子供たちはみんな天真爛漫で明るく、楽しく、授業よりもコミュニケーションを大事にしているようでした。ある日授業中に女の子が、「私は吉田君のお嫁さんになります!」と大きな声で告白され、息子もびっくり仰天したそうです。また、逃げる女、という女生徒がおり、授業中でも、さっさと窓から笑いながら走り逃げていくそうです。なんとおおらかなシマなんでしょう。

 シマの生活において、食費はほとんどかかりませんでした。季節ごとの野菜や海でとれたての魚を周囲のみなさんが毎日届けてくれるのです。じゃがいもは肥料をいれる袋いっぱい置いていってくれるし、野菜は畑に入って持って行け、といわれ毎日ただで収穫させていただきました。スイカの季節になると、毎日届けてくださり、土間にはスイカが十個もたまってしまい、頭を悩ませるほどほどでした。食べきれない分を夜中に庭に穴掘って埋めたところ、四~五日で発芽してしまい、ばれてしまった、というエピソードも懐かしいところです。

 職安からは、あなたに向いた仕事はありませんから、といわれて、毎日のんびりのんびりしておりました。水着にTシャツを着て、水中メガネと足ひれを積んでスクーターで戸盛海岸へ行ってシュノーケリングで色とりどりの魚を見るのが日課になっていました。海の透明度は信じられないほど素晴らしく、エメラルドグリーンのさんご礁を心底満喫できました。松戸にいた頃、海水魚の飼育にはまり、90センチの水槽で一匹数千円から数万円もかけて購入していたチョウチョウウオやヤッコたち魚クンがただで泳いでいるのです。魚を見つけるたびに、この魚は3千円だったなぁ、とか値定めしながら、また、生きた珊瑚は白じゃなくてくろっぽいんだなぁ、と関心しながら、自然が一番、と納得して新鮮な驚きの連続でした。

 同時に勉強しないと頭がぼけてしまうと思い、職業訓練学校に通い、日商簿記3級とワード2級、エクセル2級の資格を取得し、ヘルパー2級、1級小型船舶操縦士、スキューバダイビングの資格も取ることができました。これらの資格が後に宮崎で役に立つとは全く想像もしておりませんでした。

 妻も現金収入を得るために、集落に隣接した奄美パークの募集を見て、年齢制限20代のところをあえて応募し、40歳にもかかわらず見事合格してしまいました。月給十四万円はシマでは高給取りに入ります。委託会社が鹿児島だったので、内地の給与水準だったからです。コンパニオンとして、制服に帽子をかぶり、観光客の案内やジオラマの紹介、また、田中一村画伯の美術館も併設してありましたので、そこの案内もしていました。観光客からの反応も良好で、あんたは島の人には見えんねえ、といつも言われていたそうです。

 そんなこんなで天国のような生活をしていた毎日でしたが、幸せも長くは続きませんでした。やがて転機が訪れるのです。

 いつのまにか妻の様子がおかしくなってきました。当時は私はうつ病のことはほとんど知りませんでしたから、妻が時々涙ぐんで、仕事に行きたくない、島を出たい、と言い出したときに、何を言っているんだ、しっかりしろ、頑張れ、と無理やり励ましました。こんないいところは無いぞと自分では思っておりましたが、都会育ちの妻には四六時中プライベートの無い、どちらかといえば男社会の島の生活に息が詰まってきていたようです。仕方なく30キロ先の名瀬の心療内科を受診し、うつ病と診断されました。

 息子の高校入学式の日に妻は消えました。

 私が外出から家に帰ると、息子が手紙を手にして泣いていました。手紙を見ると、遺書めいた文言が書いてあり、息子と二人であわてて探しに飛び出しました。途中、派出所で事情を説明し、捜索願も出し、近所の人たちにも協力を頼み、目撃者をさがしました。そうすると、道で歩いていた妻を車に乗せて空港まで送っていったよ、という人がいて、すぐに空港に行き、乗客名簿を調べてもらったところ、妻の名前が記載されており、自殺ではないとわかり、ホッとしたのです。

 鹿児島経由で東京に向かったようです。実家に帰るまでの記憶はまったく無く、両親も大変心配しておられました。3日後に妻は島へ帰ってきました。

 165センチ54キロあった体重も44キロになっていました。

 うつ病に関する情報を勉強し、なんとか、島に留まりたいと思いましたが、妻の決意と病状は悪くなる一方で、顔からは表情がなくなってしまいました。

 島を出る決意をし、息子とも相談しましたが、今度は息子が島を出たくないといって泣きだしました。集落の人たちもみんな心配してくれて、私の心もどうしていいか分からず、悩みぬきましたが、最後には第三の人生を迎えようと決心せざるを得ない状況に追い込まれました。

 まだ無職で、ようやく地元の老人施設に内定が決まりこれからだ、と思っていた矢先に宮崎への移住を決意いたしました。

 引越しの日にはみんなが分かれを惜しんでくれて手伝いに来てくれました。エアコンの取り外しも近所の電気職人さんが無料でやってくれたり、弁当を持ってきてくれたりして、情けがとても身に沁みました。特に隣に住む第二の母ともいえるキヨおばが妻をとても気遣ってくれて、妻もごめんね、ごめんねと静かに泣いていました。

集落で別れを告げ、静かに立ち去るつもりでしたが、マサエ姉ェとカツ兄が30キロ離れた名瀬の港まで黙って送りに来てくれて、家族みんな涙が止まりませんでした。

島へ来たときのフェリーの期待感とは反対に、悲しみと感謝でいっぱいの旅立ちでした。

島のみなさん、本当にありがとうございました。一生ご恩は忘れません・・・・・・・。





じつはその後も、人生に行き詰ったときに二度ほど、勇気と元気をもらいに島に帰りました。

妻はハブが嫌いで同行はしてもらえませんでしたが。



【2012/06/12 11:50】 | 第5章 南の島移住
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過去に書き溜めてきたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第4章 【両親との確執】



 私は自分の両親が嫌いである。好きになりたいと努めてはいるのだが、そして親孝行を実践したいと思っているのだがどうしてもダメである。

その理由は、親、特に母親の口の悪さが原因なのだ。心根は優しいのだろうが反面、会話をすると母の口からは、蛇や毒グモやゲジゲジといった、いわゆる人が嫌がるようなことばかりを吐出するのだ。その根底にはPTA時代からの偏差値至上主義・いい大学への進学・優良企業に勤務・そして出世すること。そんなありきたりの世間一般価値観で人を判断するのが私には耐えられない。

小中学生を持つ親として決してやってはいけないことの一つに、他の子供と自分の子供との比較があるが、あれと同じだ。だれだれ君はテストで90点取ったのになんであんたは60点なの、もっと勉強しなさい!、という類のことをいつも言われるのだからたまらない。

特に二十年勤めてきた会社が倒産してからはひどい。一部上場企業でグングン出世していた頃は何も言えなかったのが、失業してからは、今までの仇を取るがごとく、私の心を踏みにじるように、また心臓をえぐりだすようなことばかりを口にする。

「仕事もしてないくせに買い物はするな。」

「農業したいなんて、馬鹿なことばかり言って、できるわけがない。」

「失業してるのに酒のむな、たばこ吸うな。」

「食べ物も無いだろうから、おこぼれをあげるよ。」

 私も一応は忍耐するのだが、時にはぷっつん切れてしまうことがある。反撃するのだ。

 「うるせえ!こんな実家二度と来るもんか!。俺は乞食じゃねえんだ、おこぼれとは何事だ。ふざけんな!」

 

 そうすると母も一瞬だけシュンとする。しかしだ、それからしばらくすると今度は、私の妻と子供のいじめに走るのだ。甘い言葉で呼び出しては私の悪口を延々と話し始めるのだ。そして帰り際には食べ物や小遣いを渡す。いわゆる「金とモノ」で人をあやつれると思っている。何とも情けない。妻も子供も「金もモノも要らないからやさしいおばあちゃんでいて欲しい」と私に訴える。

 金で人の心は買える。と言ったカリスマ実業家がいた。そして日本中が彼を持ち上げ、はやし立て、マネしようとした。金の力で世の中をねじ伏せようとM&Aで次々と企業を買収していき、球団さえも押さえようとした。また政党も選挙に担ぎ上げ、客寄せパンダにした。その頃私は彼を見て、こんな奴に同調する日本人が嫌でしょうがなかった。日本はもうダメだ。一億人総金の亡者だ。と思っていたら彼は逮捕された。金もうけのためにインチキしていたのが発覚したのだ。

日本にもまだ「良心」が残っていた。

 金欲と出世欲を無くして初めて本当の人の心が解る、と誰かが云っていたが、私もそうありたいと思う。が、自分の親にその価値観を理解してもらうのは、一生無理だろう。

 「辛抱」あるのみ。

【2012/06/12 11:45】 | 第4章 両親との確執
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これまで書いてきたエッセイを少しずつ紹介していきます。


 第3章 【妻の子宮内膜症】



 広島での楽しい思い出と辛い思い出はもうひとつあります。

広島に転勤した当時の思い出は前出のとおりで、楽しかったことが多々あり、そんな穏やかで、幸せな日々がいつまでもつづいてくれれば良かったのですが、やはり、「人生万事塞翁が馬」。なんですね、幸せばかりはつづきません。

妻がようやく張り切り始めた、二〇〇一年三月のことです。腹痛や体調不良を訴えはじめ、近くの診療所で診てもらったところ、子宮内膜症とチョコレート膿腫と診断されました。紹介状をもらって広島市民病院へ行き、MRIで詳しく検査してもらったところ、子宮内膜症には四段階の進行があって、妻の場合はもうすでに、第三段階にきている、とのことでした。

もっと早く診察すべきでした。そして女性の方は、特に若い人も婦人科検診は毎年受けた方が良いです。

妻の場合、手遅れに近く、手術で、子宮と卵巣の全摘出をしなければならない状態だったのです。妻も私も落ち込みました。私にとっては「子宮内膜症」ということばそのものが始めて聞くものだったので、最初のうちは膜の炎症程度にしか思ってなかったのですが、医学書やインターネットで調べるうちに、全国の何万人もの女性たちがこの病気で悩んでいるということがわかりました。子宮を摘出したあとが大変で、ホルモンのバランスが上手くいかず、いらいらしたり、更年期症状が始まって精神的にダメージが起きやすいとか、声が太くなるとか、けっこう深刻な病気なのです。

妻はといえば手術を目前にして、全身麻酔から二度と目が覚めないのではないかという恐怖で不安がっていました。中学生の息子を残して、まだ死にたくない、死にたくないと悩んでいましたが、手術を避ける選択の余地はもう何もありませんでした。

四月二十三日、妻は二時間半の手術を受け、無事にこの世に帰ってきました。手術後、医師より説明があり、卵巣二個の内、一個を残せたので、少しは後遺症も和らぎますよ、といわれ、ホッと一安心でした。全部無くなってしまったらかわいそうでなりませんでしたから。しかし、取り出したばかりの子宮と膿腫を見せられたとき、あらためて失ったものの大きさ、尊厳、を感じました。



約二週間の入院の後、新緑がとてもまぶしい五月のゴールデンウィークに妻は退院して、我が家に帰ってきました。



その1年後に会社が倒産するとはまったく想像だにしておりませんでした。

【2012/06/12 11:41】 | 第3章 子宮内膜症
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過去に書いたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第2章 【東京を逃れて、広島へ】



 私はこれでも、東京の大ファンでありました。高校を卒業するまでは九州宮崎県の宮崎市で十八年間を過ごし、受験はすべて東京の大学でした。当時は何もない宮崎が嫌いでしょうがなく、高校は当時できたばかりの県立の進学校で勉強は朝課外から放課後課外まで含め合計九時間の授業、遊ぶ暇もなく勉強・勉強で友達をつくるどころか、まわりは全部ライバルだ、と教わってきたものですから、ほとんど口をきくこともなく、敵対視ばかりして出し抜くことだけを考えていた気がします。その割りに、成績は伸び悩んでいました。

 早く宮崎を離れたくて、一浪の身になると、親の許可を得て、すぐさま上京し、早稲田予備校に通い始めました。西部新宿線の上井草というところに浪人生だけの下宿があり、浪人仲間四人で、不安ながらも夢を語り合い、短い一年間でありながらも内容の濃い、青春のひとコマであったと、いまでも懐かしく思い出します。予備校の名物教師に萩野先生という方がいらっしゃって英語の担当でしたが、英語の授業は行わず、「富士山が日本一高いのは裾野が広いからである。」とか「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とか人生訓示を聞くのが楽しみでしたね。後に国会議員になったというニュースにはおどろかされましたが。

また当時、高田馬場のビッグボックスにヘッドフォン式のジュークボックスがあり、アース・ウィンド・&・ファイアーの「宇宙のファンタジー」をいつも聞いていました。翌年、大学合格のさいには武道館まで本物を聞きに行き大感激したものです。

 大学は八王子に移転して二年目の中央大学でしたので、広いキャンバスと四階建ての食堂に驚きながら、テニス同好会でハチャメチャの学生生活を送っていました。当時はサザンオールスターズが出始めたころで、少なからず影響を受け、合宿先の山中湖ではみんなで酔っ払ってボートの沈めあいをしたり、ケンカしてお互いのアロハシャツを破きあったり、民宿の壁に鉄拳で穴をあけたりと、今の若い人の乱れようを批判できるような立場ではなかったですね。ですから、「今の若いもんは・・・」という批判は絶対にしません。みんなやってきたことを年取ると忘れてしまってるんですよね。

 バイトをしては毎週末新宿歌舞伎町のディスコに通い、朝まで飲みまくり、踊りまくりの日々で結構充実していました。当時、「カーニバルハウス」とか「カンタベリーハウス」「ブラックシープ」とかよく行きました。

 そんなこんなで、東京は夢のような街でした。しかしそれは若者にとっての夢が叶う町だったのかもしれません。

 社会人となってからも今度は、自分の稼いだ金で遊べるようになり、誰に気兼ねすることなくランクアップして遊んでいましたが、やはり仕事が絡んできますので、むちゃくちゃはできません。次第に会社の愚痴やストレス発散のための息抜きになり、また社会的責任も加味されて、面白く遊ぶことができなくなってきました。

 目黒の独身寮を出て川崎の稲田堤駅近くのマンションで新婚生活を始め、北浦和の社宅に移り長男が生まれ、老朽改修に伴い、松戸社宅に引越し、昇級にともない仕事も忙しくなり、夜の付き合いもだんだんふえて自分を振り返る時間がなくなってきました。週末は二日酔いですごすのみ。そのころから右後頭部に偏頭痛が起きるようになり、家庭ではいつも不機嫌な顔ばかりして、妻や息子につらく当たるようになっていました。

 地下鉄サリン事件が会社近くの小伝馬町駅で起きたり、東北の建設談合事件で右翼の街宣車八台に会社を取り囲まれたり、マンション建設にともなう近隣住民説明会で吊るし上げられたり、と落ち着かない日々が続くようになりました。

 もっともきつかったのが、朝の通勤でした。松戸駅まで徒歩十八分、松戸から常磐線で日暮里まで約二十分、山手線に乗り換え約十分、と時間的には東京では恵まれた環境にありましたが、朝のラッシュでは我先にと皆が押し合いへし合い、乗れたり乗れなかったり、乗れてもスーツの裾をドアにはさまれたまま発車されて身動きとれなかったり、足を踏まれたり、踏み返したり、女性には痴漢と間違われないよう身動きひとつしないようふんばったりと、苦労が絶えませんでした。

月に一度くらいの割合で飛込み自殺があり、電車は停まり、復旧に一時間車内に閉じ込められた日には、亡くなられた方に同情するどころか、いい迷惑で、よそで勝手に死ねばいいのに、とさえ思うようになっていました。

そのころになると乗り換えの日暮里駅でも我先にとぶつかり合いながら走るサラリーマンたちのトラブルや暴力行為もエスカレートするようになり、老人・女性・子供・身障者などの弱者がその犠牲となるのをよく見かけました。おそろしいことに私自身も弱者が邪魔になってきたのです。

このままではストレスがたまり、一触即発状態です。私の会社の先輩も地方から転勤してきてまもなく飛込み自殺してしまいました。目撃者の話では、ホームにしゃがみこみ、合掌し、そのまま入ってきた電車に引き込まれるように落ちていったそうです。

まわりは敵ばかりで殺すか殺されるか、または自殺するか、しか頭にない時期もありました。折りしも、見知らぬ同士がぶつかった争いで口論の末ホームから突き落とされて死亡するという事件があり、明日は我が身かも知れない、と恐ろしくなりました。

こんな東京にはいられない、短気な私がケンカ相手を突き落として死なせでもしたら、一生刑務所暮らし、家族も生きて行けない。それより、東京を離れよう、と決意したのが四十歳の頃です。早速上司に相談し、地方への転勤希望を出しました。

しかし転勤というのもなかなか希望は叶わぬもので、もっとも私は夢の沖縄営業所を希望してしまったので、社内からの反発も多く、福岡支店からクレームも出て、結局は広島の中国支店に配属が決まりました。地方旅行案内誌「るるぶ」もたくさん購入してしまい妻に笑われました。

家族に自分の状況を説明し妻と息子にも同意を得ての第二の旅立ちです。我が家は何かあると必ず家族会議を開くようにしています。息子の小学校の卒業に合わせて、三月に広島に転勤することになりました。妻の実家は埼玉八潮市で、松戸からは車で十分の距離でしたので、広島なんかに行くと会えなくなると猛反発は受けましたが、ただひたすら謝るのみでした。息子は六年間がんばったサッカーチーム、松戸の「中部イーグルス」との別れを惜しんで涙していました。今思えば、息子の苦労はここから始まったのです。

十八歳から住んできた東京を二十二年ぶりに離れました。

不安はあったものの、しかし広島はとてもいいところでした。街中が緑にあふれ、あちこちに川が流れ、路面電車も風情があり、よそ者は受け入れないといわれていた割りにはすんなりと溶け込むことができました。引っ越したころは桜の季節で、とても爽やかな春風の印象を覚えています。

交通もバスと電車の便がとても良く、最初のうちは安佐南区の西原駅からアストラムラインで本通り駅まで通勤していましたが、途中からはバスに切り替え、川と緑を車窓から楽しみながら座ったまま二十五分の通勤でした。こんな幸せがあったんだ、と東京と比較しながらほくそ笑んでおりました。会社は広島市民球場の真ん前でしたので、野球オンチの私でさえ同僚に誘われるに任せて、気軽にかつ、結構興奮しながら、広島カープを応援しました。選手を間近に見られるのはやはりいいものです。金本選手はけっこう光っているのが私でさえわかりました。後年阪神に移籍したのは残念です。

いつしか私のストレスもなくなり、家庭内暴力も消え去っていました。

週末のたびに郊外のドライブをするようになり、広島ニュージーランド村やガラスの里・湯来温泉・安佐動物公園・桂浜海水浴場・江田島・尾道・福山鞆の浦・岩国錦帯橋・山口秋芳洞・しまね海洋館アクアス、と行動範囲を広げて、今までの家族に対する償いをするというより、家族で楽しむことができるようになっていました。なによりも自分でうれしかったのは、豊平でそば打ちを教わったことで、これは東京にいたころからの念願でしたから、そば粉を買ってきては、しょっちゅう、そばがきと生そばと揚げそばを作って家族からも大好評でした。

実を言うと、東京時代には運転がいやで、ドライブといえば家族で房総半島を一回まわっただけで、あとはゴルフで千葉まで往復五~六時間もかかるのに辟易して、それ以外はまったく車に乗るのもいやでした。土地が変わると人間もずいぶん変わるものです。

妻は近い都会(東京では街に出かけるだけでも疲れる)に喜び、基町クレドや天満屋などに気軽に立ち寄りショッピングなどを楽しみ、息子は安佐南FCでサッカーの技術が向上していくのがとても楽しそうでした。毎日グラウンド50週を走り、サッカー選手を目指し、Jリーグは毎回観戦し、サンフレッチェジュニアの練習にも参加させていただき、希望に燃えていました。

仕事も楽しく、毎日出勤するのが楽しみでした。営業課長として配属され、上司と部下にもめぐまれ、あくせくと走り回ることもなく、ノルマもあって無きがごとくで、その日の気分次第で顧客訪問といった自由な仕事を任されていたのが力みが抜けて良かったのか、受注も成績も日に日に上昇していきました。

そんなある日突然、2002年の3月3日、土曜日の朝5時半に上司から電話があり、「吉田君、テレビのニュースを見たか、会社が倒産したぞ!」とたたきおこされたのです。すぐにスーツに着替え会社へ向かいました。社員もぞくぞくと集まりみんなでニュースにかじりついて見ておりました。倒産の原因は、バブルの際に北海道や東北のリゾート用地を次々に取得し、また転売しながら利益を上げていき、バブルがはじけたときに誰がババを引くかというマネーゲームでババを引いてしまったのであります。また、取引先銀行の第一勧銀も金が余り、目的はなんでもいいから三千億円借りてくれ、と頼みに来たという話も聞いていました。

建築・土木部では業者からの差し押さえに備えるよう現場への対応に追われていました。会社更生法が適用されるはずだから心配いらない、平静に顧客対応せよ、などと支店長からの話しもありました。その時は私自身特に何の心配もしていませんでした。

数日の後、管財人がやってきて、当分は今までどおりと変わりませんから、お客様によく説明するようにとの指示があり、朝から晩まで頭を下げてまわりました。自分でも給料は下がってもまたすぐに元通りになるだろうと思っていました。私自身、結構高給取りでしたので、金の心配はまったくしておりませんでした。

しかしながら、最終的に五千億円を超える負債総額を世の中が許すわけはありません。人員のリストラが始まりました。支払が停止されたので下請け孫受け会社もぞくぞくと倒産していったので次第に罪悪感に責められるようになってきました。一部上場取り消しとはいえ社員5千人の大企業ですから、みんな会社に残りたいと思う気持ちは一緒でしたが、リストラのノルマは容赦なく迫ってきました。一人ひとりが業務を査定され、AランクからCランクまで背番号が背負わされました。CランクからBランクへと順番に退職の打診が始まり、泣く泣く会社を去っていきました。私には最後に形式上の打診があり、会社に残るように指示されました。

去るも地獄、残るも地獄。

連鎖倒産を強いられた業者さん、申し訳ありません。自殺者も出たようです。

広島の地元の若い社員が切られていくのを見るにつけ、よそ者の私が残ってていいのだろうか、管理職として責任をとる方法は、受注をがんばって将来お返しをした方がいいのか、退職して若い人に地元で頑張ってもらうほうがいいのか、春先の爽やかな季節に、桜が満開の川沿いのベンチや記念公園や原爆ドームの前に座って何日も考えました。

4月の中旬に答えを出しました。これも運命だから、いさぎよく退職して第二の人生を始めようと。これを期にまた違った土地に行って一から出直そうと決めたのです。

私の夢は50歳までに貯蓄を蓄え、退職金と合わせてハッピーアーリーリタイアーをしてハワイ島に移住して、こじんまりとした家を300万円で建て、ヤシの木をいっぱい植えてゆったりとした生活をすることでした。そのために、ハワイ島には400坪の土地も準備済みだったのです。家の設計図もできていました。ハワイ島のヒロという町でその昔、広島出身者が入植し、苦労しながら建設した町だそうです。自然豊かで、貿易風が心地よい風を運んでくるため湿度が低く、気温の割りに涼しいとても空気の良い美しい島です。地元のマクドナルドには朝早くから老人が集まり、見た目は日本人ですが、日系2世・3世のため、日本語は話せず英語のニュースペーパーを読みながらコーヒーを飲んでいました。何度か訪問し、家族も喜んで楽しみにしておりました。しかしながら、会社が倒産した今となっては夢も同時に打ちひしがれてしまいました。ハワイでは就労できませんからお金が稼げません。

それからは早速次の移住先さがしが始まりました。気持ちを切り替え、どうせ行くならやはり南の島だ、それも観光地化された沖縄ではなく、自然が手付かずに残っている南の島を目指そうとネットで検索をはじめました。しかしながら、遊びで行くのとは違い、食べるために仕事を探さなければなりません。また、住む家も、息子の学校も考えなくてはなりません。そうしているうちに、石垣島や与論島、奄美大島、と探していたら奄美大島の笠利町で移住者募集の情報を得ることができました。さっそく町役場に電話をしてパンフレットを送ってもらいました。読み進むうちに心は決まっていました。

さあ、奄美大島だ!


【2012/06/12 11:38】 | 第2章 東京から広島へ
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 過去に書いたエッセイを少しずつ紹介していきます。
 

第1章 【仕事は最高、家庭は最低人間だった20代】



私は妻と息子に、心から深くお詫びすると同時に、それでもこんな私を見捨てなかった二人に、心から感謝しています。

 団塊の世代から約十年後に生まれた、私たちの時代はすでに、偏差値至上主義であり、成績さえ良ければ何でも許される、とまわりも私も思い込むようになっていました。一流大学を出て、当時は銀行に次ぐ優良企業であるゼネコンに入社し、東京支店から本社営業本部に引き抜かれ、いかにも順風満帆の人生に見えておりました。

 入社一年目にして、会社の高嶺の花であった妻に一目惚れして、なにげないふりしながらも猛烈にアタックを繰り返し、ついに昭和六十一年三月に無事結婚することができました。これも私にとっては人生最大の喜びでありました。

 翌年には長男も生まれ、幸せはピークに達しておりました。夫であり、父親であるという自覚も生まれ、家族を守って生きていく、頑張るぞ、という気持ちでいっぱいでした。

 仕事の方も順調で、東京をはじめ日本全体がバブルに向かって一直線に進んでいました。会社は、マンション建設から、各優良企業の設備投資、東京湾横断トンネル、本四架橋、と大プロジェクトを受注しながら好決算を繰り返していました。夜は毎晩、会社の金(接待費)で飲みまわり、新宿・銀座・をハシゴしてはタクシーで松戸の社宅まで深夜割増料金を一万五千円もかけてチケットで帰る、という毎日。男としても冥利に尽きる豪遊です。

 ところが、好事魔多しで、良いことばかりは続きません。

会社や通勤でのストレスが溜まってくると、だんだん酒になぐさめられるどころか、日常封印されていた鬼が現われるようになり、健康を心配する妻に、怒鳴っては暴力を振るうようになり、どんどんエスカレートして、ついには泣き止まない赤ちゃんを蹴飛ばしながらまた飲みに出て行く始末でした。

 それでも外面は良く、常に笑顔を絶やさない、仕事のできる、エリートの営業マンとして世間には映っていたはずです。妻は実家に訴えることもせず、青アザを隠しながら、ただひたすら息子を守って、耐え続けておりました。

 冬の寒空の中でも、私に追い出された妻は息子とふたりで、二十四時間営業のファミレスで夜明けを待って、家に帰って来ました。そんな暴力の日々が十年くらい続いたと思います。



 

【2012/06/12 11:32】 | 第1章 最低人間20代
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介護士お父さんへ
荒井祝昭
いい話を聞かせて頂きました。自民党は介護士の給料を減らす政策を行いました。どうかもう自民党には投票しないでください。〒560-0084大阪府豊中市新千里南町3-1-24-4F荒井祝昭TEL06-6835-3386FAX06-6835-3416

荒井祝昭様へ
yossy610
 介護士の給料は生活保護以下です。

 将来の夢は生活保護!と行っている相談員もいますよ。

 格差社会に、突き進んでいますね。

 コメントありがとうございます!

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 本日、英会話クラブ・園芸クラブのイチゴの苗取り・演劇クラブ(紙芝居?)・腰フラナイダンス・・・と大盛況でした。(紙芝居は小盛況かな?)。なにせ、NGMは何考えてるのか全く予測不可能。

 昨日用意した、100均の子道具も無理やり採用していただき、スミマセンデシタ・・・

気持ちよく帰宅し、ベランダでワンコとビール飲みながら、お話ししていました。「今日も1日、ウチを守ってくれてありがとう。お前ももう9歳だ、おとうさんと同じ歳くらいだね、俺より長生きしてくれよな。」と言うつもりだったのが、「俺と一緒に長生きしような。」といっておりました。

 老犬は鼻をぺろぺろなめてくれました。こいつはもともと金髪だったのが、最近白髪まじりになってきました。

金髪の話にもどりますが、あまりにも目立ちすぎるのでスーパーハードで固めてオールバックで出社すると、ばあちゃんが、「あんた、染めた後は流さんといかんよ。」・・・染めたまんまで来た、と勘違いされたようです。

 パツキンはやっぱイイネ!

追伸:南米エクアドルのUTAさん!ご訪問ありがとうございました。イイネ!
 

【2012/06/11 20:55】 | 介護士
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いちご(>_<)
蚊取り線香が、何よりも、必須!!

夕方まで、いちごのお世話。
アリガトウございました。
きっと。ちゃんと。
根付いてくれますよね。

英会話クラブの小道具準備。
アリガトウです。
何にでも、挑戦せんと、いかんですね。
小道具のおかげで、
がぜん!ヤル気っす。

紙芝居は。ほっといて。
勝手に、こっちは。
盛り上げていきましょう。

わんちゃんと、会話しながらの、
ベランダビール!
いいですね。
優しいさ溢れる姿を、
なんだか。想像できます。

休みの日は、ゆっくり
休んでくださーい。
よおーし。
明日は、天気悪そうだけど。

書道。がーんばろっ!


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 ご心配かけました。昨夜から睡眠導入剤を3回服用し、とにかく、18時間ねむりつづけました。

午後3時に目覚め、スッキリ! さっそく髪染め、シャワー浴びようとしたら、女房が使用中で1時間放置、金髪になってしまいました。エヘヘ、また注意されるのかな?おとうさんは負けないよ!

 次の目標「工作クラブ」のためにさっそくダイソーへ買い出し。目移りしてなんでもカゴに入れちゃいました。

今週のオレをみてくれ!・・・たぶんスタッフみんなから大ヒンシュクの嵐だろうが、・・・疲れた顔よりマシだろう。

 おふくろに言われました。「新しいことをすると、半分の人は反対するよ!それでも失敗しても、そのうち分かってくれる日が来る。」

 古いしきたりに流されるのはイヤだ!新しい流れに対応できる能力!利用者は全員消極的、それを積極的に変えて、生きる喜びを創出していくのが、私たちの役割、

 失敗したっていいじゃないか!おれは失敗を恐れず、ガンガンいくぜ!

女房にいわれた、あんたはやりすぎ! 敵つくるよ!

 ケンカしないと人は相手を理解できない、ケンカの効用、いままで多くの人とケンカして仲間になった。

もし、ガンが転移していて、職場復帰できない身体になっても、バカなおやじの遺産を残したい。(泣けるね!)

 
 天才は死んだ後に理解されるのだ!(過去の天才シリーズより)

【2012/06/10 20:41】 | 介護士
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アタシも金髪にしよっかなー!
理事長!金髪じゃーん!
OK!OK!
旦那とか、クリニック入職当時!
金髪。ロン毛ー。。

理事長。「個性!個性!いいですね。」
って、言ったらしい。

ネガティブ思考は、なーんも、生まれなーい!
O型、男子は、どうにかなる。
って。妙な自信を、持ってる人
多い気がするけどなー。

疲労回復には。
やっぱり。ユンケル!
そして。家族!でしょ。

奥様と、たまには、ランチなんて、
どうですか?
そーいえば、
明日は、結婚記念日だわ。
忘れてた。
そんな程度のものなんですけどね。

奥さまは、どんな事でも、
きっと、お見通し!
理解してくれている。
奥さまへ。感謝を。込めて
二人で、お出掛けに。
いって。リフレッシュしてください。



jacky
いつも見てます!
明日、ぱつきんの頭を見るのを楽しみにしてます:)


Boss
ただ今、パツ金の頭を見ながら、コメント入れています(笑)

ダイソーグッズありがとうございました。
せめて、領収書切ってくれればよかったのに・・・

以前師匠に、「生まれた瞬間から、ゴールに向かってるんだよ、毎日が、カウントダウンだよ、死んだら、休めるから、全力でやれ!」と言われていました。若い自分を鍛えてくれていたんですね。

自分だけではなく、誰かの為に頑張っていることを、誰が否定反発をしますか?その人の足跡ですよね。

・・嫁さんと一年ぶりの東京デートは、最高でした。
今日から、また頑張らせて頂きます。

あっそれと、Yねえさん、英会話、大盛況だったそですね、教材もすばらしい!!負けないぞ!!


8beats
通リハに勤めていた時は主任が金髪だったので、
私もそれにならい、茶髪でツイストパーマをかけたりしていました。

それはそれとして、根を詰め過ぎるのは心身ともに良くないと思います。
私達夫婦は根を詰め過ぎて、どちらも介護職を離れてしまいました。
妻はパートでも嫌だと言っています。(のめり込み過ぎて子育てがおろそかになる為)

人それぞれやり方は違いますし、
リタイヤしてしまった私が言うのも恐れ多いのですが・・・。
無理だけはせず、お身体第一で。

みなさんアリガトね!
yossy610
根を詰め過ぎ、まさしく今の私です。

唯一の喜びは、ばあちゃんたちに拝まれること。
拝まれたら、どうしようもなくなっちゃって頑張るしかないな、て思ってしまう。

 そして、唯一の励ましが、みなさんの温かいコメント。・・・思い残すことは無い、・・・なんて気になってしまいますが、・・・酒を控えめにして、元気とりもどしますよ!

 みなさんありがとうございます。

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