ゼネコン倒産、南の島移住、宮崎帰郷、転職8回、メラノーマ(悪性黒色腫:10万人に1人のガン)闘病中、職場復帰、何度転んでも立ち上がる56歳のおとうさんです!死を覚悟してからは強くなった。みんなで楽しく生きよう!
  いままで書き溜めてきたエッセイを少しずつ紹介していきます。


 第5章 【南の島への移住】



①カーフェリー

真っ暗な海を渡る風は、目指す南の方から吹いてきて、デッキに一人でたたずむ私の不安をやさしく洗い流してくれるような心地よいぬる風でした。

二〇〇二年六月四日、鹿児島港を夕方出航し、一路奄美大島へ向かうカーフェリーで、家族三人とキエリインコのピー子との新しい旅立ちです。出航の際、見送りの人や、見送られる人、涙や、励ましの光景を見ながら、やはり船の旅はいいなぁ、と胸にジンジン染み渡りました。私たちは宮崎ですでに両親との別れを済ませていましたので、見送ってくれる人はだれもいません。

この日はサッカー日本代表の何かの試合があり、船の中ではお客さんが皆、ビール片手にテレビ観戦していました。また、乗客の中には奄美や沖縄の方が多く、酔っ払って話しているのを側で聞いていて、まったく分からなかったのも初々しい気分にさせてくれました。

ワンカップの日本酒を妻に手渡し、二人で静かに飲みました。中三の息子は、やはり、興奮していたのか、船の中をあちこち散策していたようです。



高血圧の私は、朝方三時頃にはもう目が覚め、着替えもしてなかったので、そのままデッキに出て夜明けを待ちました。そのうち暗闇の中に灯台の明かりが見えてきて、やがてポツリポツリと街頭や民家のあかりが見えてきました。奄美大島です。いつの間にか、息子が隣に立って無言で一緒にながめていました。妻は低血圧ですので、起きてくることはありません。熟睡中です。

六月五日の水曜日、朝五時二十分、奄美の名瀬港に到着しました。内地(シマンチュは本土のことをそう呼びます)から新しい先生が赴任して船に乗っていたのでしょう、港には父兄や生徒たちが、長さ十メートルもありそうな横断幕に「歓迎 ○○先生 ようこそ○○学校へ」と書いて大勢で出迎えしているのがデッキから見えて、またまた感動ものでした。

いよいよ家族三人で島への上陸です。



②移住一日目(六月五日)

さかのぼる事一ヵ月前、私は五月の連休に家探しのため、単身、飛行機で奄美に降り立っていました。その時、レンタカーで島の半分はドライブしていたのです。インターネットで笠利町を知り、役場の方にアポを取っての来島でしたが、なかなか住まいがみつからず、たいへんでした。

当時の日記を見ると、毎晩、ビジネスホテルで落ち込んでいたようです。ただし、島の美しさには感動ばかり書いてありました。エメラルドグリーンの海を見て、絶対にここに住むぞ、と決意をあらたにしました。結局は、役場の方の頼み込みで、笠利町節田集落のど真ん中にあった浜田オジの家を借りられるようになりましたので、嬉しくて、嬉しくて、その夜は名瀬の繁華街に出て、黒糖焼酎を一本キープしてかなり飲んだものです。

というわけで、私は島の地図が半分は頭に入っていたものですから、フェリー上陸から奄美に上陸したらすぐに、家族にきれいな海を見せてあげようと、車で大浜海浜公園へとむかいました。名瀬から十分ほどの公園に行く途中の上り坂、左車線には「亀」、追い越し車線には「うさぎ」の絵が描かれており、ほのぼのとした、そして来てよかったなぁ、という感慨ひとしおで、ひとりはしゃいでおりました。早朝だったこともあり、浜辺にはまだ誰もおらず、我々だけで美しい海を見ながら、家族三人で新たな生活の第一歩を踏み出したのです。妻と息子も初めて見る植物や海の美しさに感動しておりました。

港のジョイフルで朝食を済ませ、これから永住する笠利町へ向けて車を走らせました。今日はすることがいっぱいです。大家さんへの挨拶、息子の赤木名中学校編入手続き、笠利町役場への挨拶、その他、明日から始まる引越しの準備等々。頭の中はいっぱいではありましたが、なんとなくゆったりとした気分で、それでもどんどんこなしていけました。

お会いする島の人たちはみなさん笑顔で、どこから来たのか、どこに住むのか、興味津々で聞かれましたが、広島から来て、節田集落の浜田オジの家を借りた、と説明すると、だれもが納得してくれました。浜田オジは、島ではかなりの有名人だったのです。息子もとても不安だったと思いますが、ピンクでふちどられた鉄筋コンクリート三階建ての赤木名中を見て一安心したようです。

スケジュールをこなした後、時間がかなり余ったので、島の北部を一周することにして、蒲生崎、笠利灯台、土盛海岸、奄美空港とドライブし、「ばしゃやま村」というリゾートホテルでお茶にしました。ここは島でも珍しくきれいに整備された場所で、入り口には大きなガジュマルの木が太い根をおろし、見上げると左右に大きく枝を張って、緑がたくさんの木陰をつくってくれているのでした。石垣にはたくさんのブーゲンビリアが咲き乱れ、ハワイ島のヒロを思わせるような雰囲気で、とても気に入りました。海辺を見下ろすカフェテリアで、妻がようやく安心した様子でアイスコーヒーを飲んでいました。

引越しは明日なので、今日は国民宿舎の「あやまる荘」に泊まります。〝あやまる〟は謝るではなく、岬の形が〝彩毬〟(あやまり)に似ていることから名付けられているそうです。宿舎に着いたら、大島紬の正装をした島の方々が大勢いて、結婚式か何かが始まるようでした。私たちは静かに夕食を済ませ、明日のために早く寝ることにしました。宴会の音がうるさいかもしれませんよ、と仲居さんにいわれてましたが、一日の疲れがどっと出て、遠くの波の音を子守唄に、深い眠りにつきました。



③移住二日目(六月六日)

 なんということでしょう、朝早く目が覚めてカーテンをあけて窓の外を見てみると、夜明け前の朝焼けの赤やブルーや黄色や色々な色を放つ空と海が目の前に壮大に広がっているではありませんか、いままで一度もみたことのない光にあふれた大自然の美しさに感動した私は、すぐに家族を起こして、みんなで眺めていました。私たちの新生活を祝福してくれているとしか思えないような瞬間でした。

 幸せ気分で朝食を済ませると、いざ引越しです。節田の家に早々に到着したら、いきなり驚いてしまいました。近所の人たちが大勢で家の掃除をしに来てくれているではありませんか。また、家の裏の方では、浜田機動の人たちがトイレの工事にとりかかっていました。浜田機動とは大家さんの浜田おじが社長をしている土木建設会社です。ぼっとん便所だったのを水洗式に改修してくれているのです。こんなありがたいことはありません。南の島の情の厚さの初体験でした。

 引越しの荷を積んだトラックが到着すると、やはり皆さんが手伝ってくれて、あっという間に運び込みは終わってしまいました。あとはダンボールの開梱するだけですが、このダンボールの量が半端ではなく多いので、まあ南の島での生活を楽しみながらゆっくり片付けていこうと思っておりました。ちなみに広島から奄美まで四トン車2台分で約五十万円ほどかかりました。昼には浜田婦人がおにぎりやら珍しいおかずやらをたくさん差し入れしてくれて、おいしくいただき、たくさん余ったので、夕食の準備をする必要もありませんでした。

 また、向かいの奥田さんの奥様(マサエおば)からは畑でとりたてのネギと、玉子を十四個いただきました。檻の中の養鶏場ではなく、海岸近くの広い敷地に、柵とネットを張っただけの場所にニワトリをたくさん放し飼いにしているそうです。この玉子は割ってみると、今まで見たこともないような黄身が盛り上がった玉子で、いかにも新鮮で、栄養満点まちがいなし、というような玉子です。グルメ番組でよく食材さがしに地方まで行くのを観ていましたが、まさしくこれです。その後も、玉子が無くなりかけると、毎週のように、届けてくれました。もちろん無料です。奥田さん宅は奥田建設という建築会社をやっており、個人住宅の請負業が主体のようです。

 水洗トイレは配管のズレに試行錯誤しながらも、昼すぎには完成し、使えるようになりました。職人さんと話してみると、トイレの工事は初めてだったから、手こずった、と信じられないようなことをいわれました。プロではなく、しろうとさんだったのです。島ではなんでも自分たちで作るから心配いらない、と説明を受け、妙に納得させられました。あとから分かったことですが、この集落では、トイレの水洗化はまだ一割程度で、ほとんどがぼっとん式なのです。集落は台風の風の影響を少なくするために、密集して家が建っているので、浄化槽を埋め込む敷地がないためらしいです。あと金銭的な面もあるかと思います。

 夕方になると息子が赤木名中学校から帰ってきました。6キロほどの道のりを自転車で通学です。あとになって息子に聞くと、さとうきび畑の間の道を海に向かって駆け下りていくのが最高だったと懐かしく思い出していました。また、シマの子供たちはみんな天真爛漫で明るく、楽しく、授業よりもコミュニケーションを大事にしているようでした。ある日授業中に女の子が、「私は吉田君のお嫁さんになります!」と大きな声で告白され、息子もびっくり仰天したそうです。また、逃げる女、という女生徒がおり、授業中でも、さっさと窓から笑いながら走り逃げていくそうです。なんとおおらかなシマなんでしょう。

 シマの生活において、食費はほとんどかかりませんでした。季節ごとの野菜や海でとれたての魚を周囲のみなさんが毎日届けてくれるのです。じゃがいもは肥料をいれる袋いっぱい置いていってくれるし、野菜は畑に入って持って行け、といわれ毎日ただで収穫させていただきました。スイカの季節になると、毎日届けてくださり、土間にはスイカが十個もたまってしまい、頭を悩ませるほどほどでした。食べきれない分を夜中に庭に穴掘って埋めたところ、四~五日で発芽してしまい、ばれてしまった、というエピソードも懐かしいところです。

 職安からは、あなたに向いた仕事はありませんから、といわれて、毎日のんびりのんびりしておりました。水着にTシャツを着て、水中メガネと足ひれを積んでスクーターで戸盛海岸へ行ってシュノーケリングで色とりどりの魚を見るのが日課になっていました。海の透明度は信じられないほど素晴らしく、エメラルドグリーンのさんご礁を心底満喫できました。松戸にいた頃、海水魚の飼育にはまり、90センチの水槽で一匹数千円から数万円もかけて購入していたチョウチョウウオやヤッコたち魚クンがただで泳いでいるのです。魚を見つけるたびに、この魚は3千円だったなぁ、とか値定めしながら、また、生きた珊瑚は白じゃなくてくろっぽいんだなぁ、と関心しながら、自然が一番、と納得して新鮮な驚きの連続でした。

 同時に勉強しないと頭がぼけてしまうと思い、職業訓練学校に通い、日商簿記3級とワード2級、エクセル2級の資格を取得し、ヘルパー2級、1級小型船舶操縦士、スキューバダイビングの資格も取ることができました。これらの資格が後に宮崎で役に立つとは全く想像もしておりませんでした。

 妻も現金収入を得るために、集落に隣接した奄美パークの募集を見て、年齢制限20代のところをあえて応募し、40歳にもかかわらず見事合格してしまいました。月給十四万円はシマでは高給取りに入ります。委託会社が鹿児島だったので、内地の給与水準だったからです。コンパニオンとして、制服に帽子をかぶり、観光客の案内やジオラマの紹介、また、田中一村画伯の美術館も併設してありましたので、そこの案内もしていました。観光客からの反応も良好で、あんたは島の人には見えんねえ、といつも言われていたそうです。

 そんなこんなで天国のような生活をしていた毎日でしたが、幸せも長くは続きませんでした。やがて転機が訪れるのです。

 いつのまにか妻の様子がおかしくなってきました。当時は私はうつ病のことはほとんど知りませんでしたから、妻が時々涙ぐんで、仕事に行きたくない、島を出たい、と言い出したときに、何を言っているんだ、しっかりしろ、頑張れ、と無理やり励ましました。こんないいところは無いぞと自分では思っておりましたが、都会育ちの妻には四六時中プライベートの無い、どちらかといえば男社会の島の生活に息が詰まってきていたようです。仕方なく30キロ先の名瀬の心療内科を受診し、うつ病と診断されました。

 息子の高校入学式の日に妻は消えました。

 私が外出から家に帰ると、息子が手紙を手にして泣いていました。手紙を見ると、遺書めいた文言が書いてあり、息子と二人であわてて探しに飛び出しました。途中、派出所で事情を説明し、捜索願も出し、近所の人たちにも協力を頼み、目撃者をさがしました。そうすると、道で歩いていた妻を車に乗せて空港まで送っていったよ、という人がいて、すぐに空港に行き、乗客名簿を調べてもらったところ、妻の名前が記載されており、自殺ではないとわかり、ホッとしたのです。

 鹿児島経由で東京に向かったようです。実家に帰るまでの記憶はまったく無く、両親も大変心配しておられました。3日後に妻は島へ帰ってきました。

 165センチ54キロあった体重も44キロになっていました。

 うつ病に関する情報を勉強し、なんとか、島に留まりたいと思いましたが、妻の決意と病状は悪くなる一方で、顔からは表情がなくなってしまいました。

 島を出る決意をし、息子とも相談しましたが、今度は息子が島を出たくないといって泣きだしました。集落の人たちもみんな心配してくれて、私の心もどうしていいか分からず、悩みぬきましたが、最後には第三の人生を迎えようと決心せざるを得ない状況に追い込まれました。

 まだ無職で、ようやく地元の老人施設に内定が決まりこれからだ、と思っていた矢先に宮崎への移住を決意いたしました。

 引越しの日にはみんなが分かれを惜しんでくれて手伝いに来てくれました。エアコンの取り外しも近所の電気職人さんが無料でやってくれたり、弁当を持ってきてくれたりして、情けがとても身に沁みました。特に隣に住む第二の母ともいえるキヨおばが妻をとても気遣ってくれて、妻もごめんね、ごめんねと静かに泣いていました。

集落で別れを告げ、静かに立ち去るつもりでしたが、マサエ姉ェとカツ兄が30キロ離れた名瀬の港まで黙って送りに来てくれて、家族みんな涙が止まりませんでした。

島へ来たときのフェリーの期待感とは反対に、悲しみと感謝でいっぱいの旅立ちでした。

島のみなさん、本当にありがとうございました。一生ご恩は忘れません・・・・・・・。





じつはその後も、人生に行き詰ったときに二度ほど、勇気と元気をもらいに島に帰りました。

妻はハブが嫌いで同行はしてもらえませんでしたが。


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【2012/06/12 11:50】 | 第5章 南の島移住
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