ゼネコン倒産、南の島移住、宮崎帰郷、転職8回、メラノーマ(悪性黒色腫:10万人に1人のガン)闘病中、職場復帰、何度転んでも立ち上がる56歳のおとうさんです!死を覚悟してからは強くなった。みんなで楽しく生きよう!
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過去に書いたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第2章 【東京を逃れて、広島へ】



 私はこれでも、東京の大ファンでありました。高校を卒業するまでは九州宮崎県の宮崎市で十八年間を過ごし、受験はすべて東京の大学でした。当時は何もない宮崎が嫌いでしょうがなく、高校は当時できたばかりの県立の進学校で勉強は朝課外から放課後課外まで含め合計九時間の授業、遊ぶ暇もなく勉強・勉強で友達をつくるどころか、まわりは全部ライバルだ、と教わってきたものですから、ほとんど口をきくこともなく、敵対視ばかりして出し抜くことだけを考えていた気がします。その割りに、成績は伸び悩んでいました。

 早く宮崎を離れたくて、一浪の身になると、親の許可を得て、すぐさま上京し、早稲田予備校に通い始めました。西部新宿線の上井草というところに浪人生だけの下宿があり、浪人仲間四人で、不安ながらも夢を語り合い、短い一年間でありながらも内容の濃い、青春のひとコマであったと、いまでも懐かしく思い出します。予備校の名物教師に萩野先生という方がいらっしゃって英語の担当でしたが、英語の授業は行わず、「富士山が日本一高いのは裾野が広いからである。」とか「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とか人生訓示を聞くのが楽しみでしたね。後に国会議員になったというニュースにはおどろかされましたが。

また当時、高田馬場のビッグボックスにヘッドフォン式のジュークボックスがあり、アース・ウィンド・&・ファイアーの「宇宙のファンタジー」をいつも聞いていました。翌年、大学合格のさいには武道館まで本物を聞きに行き大感激したものです。

 大学は八王子に移転して二年目の中央大学でしたので、広いキャンバスと四階建ての食堂に驚きながら、テニス同好会でハチャメチャの学生生活を送っていました。当時はサザンオールスターズが出始めたころで、少なからず影響を受け、合宿先の山中湖ではみんなで酔っ払ってボートの沈めあいをしたり、ケンカしてお互いのアロハシャツを破きあったり、民宿の壁に鉄拳で穴をあけたりと、今の若い人の乱れようを批判できるような立場ではなかったですね。ですから、「今の若いもんは・・・」という批判は絶対にしません。みんなやってきたことを年取ると忘れてしまってるんですよね。

 バイトをしては毎週末新宿歌舞伎町のディスコに通い、朝まで飲みまくり、踊りまくりの日々で結構充実していました。当時、「カーニバルハウス」とか「カンタベリーハウス」「ブラックシープ」とかよく行きました。

 そんなこんなで、東京は夢のような街でした。しかしそれは若者にとっての夢が叶う町だったのかもしれません。

 社会人となってからも今度は、自分の稼いだ金で遊べるようになり、誰に気兼ねすることなくランクアップして遊んでいましたが、やはり仕事が絡んできますので、むちゃくちゃはできません。次第に会社の愚痴やストレス発散のための息抜きになり、また社会的責任も加味されて、面白く遊ぶことができなくなってきました。

 目黒の独身寮を出て川崎の稲田堤駅近くのマンションで新婚生活を始め、北浦和の社宅に移り長男が生まれ、老朽改修に伴い、松戸社宅に引越し、昇級にともない仕事も忙しくなり、夜の付き合いもだんだんふえて自分を振り返る時間がなくなってきました。週末は二日酔いですごすのみ。そのころから右後頭部に偏頭痛が起きるようになり、家庭ではいつも不機嫌な顔ばかりして、妻や息子につらく当たるようになっていました。

 地下鉄サリン事件が会社近くの小伝馬町駅で起きたり、東北の建設談合事件で右翼の街宣車八台に会社を取り囲まれたり、マンション建設にともなう近隣住民説明会で吊るし上げられたり、と落ち着かない日々が続くようになりました。

 もっともきつかったのが、朝の通勤でした。松戸駅まで徒歩十八分、松戸から常磐線で日暮里まで約二十分、山手線に乗り換え約十分、と時間的には東京では恵まれた環境にありましたが、朝のラッシュでは我先にと皆が押し合いへし合い、乗れたり乗れなかったり、乗れてもスーツの裾をドアにはさまれたまま発車されて身動きとれなかったり、足を踏まれたり、踏み返したり、女性には痴漢と間違われないよう身動きひとつしないようふんばったりと、苦労が絶えませんでした。

月に一度くらいの割合で飛込み自殺があり、電車は停まり、復旧に一時間車内に閉じ込められた日には、亡くなられた方に同情するどころか、いい迷惑で、よそで勝手に死ねばいいのに、とさえ思うようになっていました。

そのころになると乗り換えの日暮里駅でも我先にとぶつかり合いながら走るサラリーマンたちのトラブルや暴力行為もエスカレートするようになり、老人・女性・子供・身障者などの弱者がその犠牲となるのをよく見かけました。おそろしいことに私自身も弱者が邪魔になってきたのです。

このままではストレスがたまり、一触即発状態です。私の会社の先輩も地方から転勤してきてまもなく飛込み自殺してしまいました。目撃者の話では、ホームにしゃがみこみ、合掌し、そのまま入ってきた電車に引き込まれるように落ちていったそうです。

まわりは敵ばかりで殺すか殺されるか、または自殺するか、しか頭にない時期もありました。折りしも、見知らぬ同士がぶつかった争いで口論の末ホームから突き落とされて死亡するという事件があり、明日は我が身かも知れない、と恐ろしくなりました。

こんな東京にはいられない、短気な私がケンカ相手を突き落として死なせでもしたら、一生刑務所暮らし、家族も生きて行けない。それより、東京を離れよう、と決意したのが四十歳の頃です。早速上司に相談し、地方への転勤希望を出しました。

しかし転勤というのもなかなか希望は叶わぬもので、もっとも私は夢の沖縄営業所を希望してしまったので、社内からの反発も多く、福岡支店からクレームも出て、結局は広島の中国支店に配属が決まりました。地方旅行案内誌「るるぶ」もたくさん購入してしまい妻に笑われました。

家族に自分の状況を説明し妻と息子にも同意を得ての第二の旅立ちです。我が家は何かあると必ず家族会議を開くようにしています。息子の小学校の卒業に合わせて、三月に広島に転勤することになりました。妻の実家は埼玉八潮市で、松戸からは車で十分の距離でしたので、広島なんかに行くと会えなくなると猛反発は受けましたが、ただひたすら謝るのみでした。息子は六年間がんばったサッカーチーム、松戸の「中部イーグルス」との別れを惜しんで涙していました。今思えば、息子の苦労はここから始まったのです。

十八歳から住んできた東京を二十二年ぶりに離れました。

不安はあったものの、しかし広島はとてもいいところでした。街中が緑にあふれ、あちこちに川が流れ、路面電車も風情があり、よそ者は受け入れないといわれていた割りにはすんなりと溶け込むことができました。引っ越したころは桜の季節で、とても爽やかな春風の印象を覚えています。

交通もバスと電車の便がとても良く、最初のうちは安佐南区の西原駅からアストラムラインで本通り駅まで通勤していましたが、途中からはバスに切り替え、川と緑を車窓から楽しみながら座ったまま二十五分の通勤でした。こんな幸せがあったんだ、と東京と比較しながらほくそ笑んでおりました。会社は広島市民球場の真ん前でしたので、野球オンチの私でさえ同僚に誘われるに任せて、気軽にかつ、結構興奮しながら、広島カープを応援しました。選手を間近に見られるのはやはりいいものです。金本選手はけっこう光っているのが私でさえわかりました。後年阪神に移籍したのは残念です。

いつしか私のストレスもなくなり、家庭内暴力も消え去っていました。

週末のたびに郊外のドライブをするようになり、広島ニュージーランド村やガラスの里・湯来温泉・安佐動物公園・桂浜海水浴場・江田島・尾道・福山鞆の浦・岩国錦帯橋・山口秋芳洞・しまね海洋館アクアス、と行動範囲を広げて、今までの家族に対する償いをするというより、家族で楽しむことができるようになっていました。なによりも自分でうれしかったのは、豊平でそば打ちを教わったことで、これは東京にいたころからの念願でしたから、そば粉を買ってきては、しょっちゅう、そばがきと生そばと揚げそばを作って家族からも大好評でした。

実を言うと、東京時代には運転がいやで、ドライブといえば家族で房総半島を一回まわっただけで、あとはゴルフで千葉まで往復五~六時間もかかるのに辟易して、それ以外はまったく車に乗るのもいやでした。土地が変わると人間もずいぶん変わるものです。

妻は近い都会(東京では街に出かけるだけでも疲れる)に喜び、基町クレドや天満屋などに気軽に立ち寄りショッピングなどを楽しみ、息子は安佐南FCでサッカーの技術が向上していくのがとても楽しそうでした。毎日グラウンド50週を走り、サッカー選手を目指し、Jリーグは毎回観戦し、サンフレッチェジュニアの練習にも参加させていただき、希望に燃えていました。

仕事も楽しく、毎日出勤するのが楽しみでした。営業課長として配属され、上司と部下にもめぐまれ、あくせくと走り回ることもなく、ノルマもあって無きがごとくで、その日の気分次第で顧客訪問といった自由な仕事を任されていたのが力みが抜けて良かったのか、受注も成績も日に日に上昇していきました。

そんなある日突然、2002年の3月3日、土曜日の朝5時半に上司から電話があり、「吉田君、テレビのニュースを見たか、会社が倒産したぞ!」とたたきおこされたのです。すぐにスーツに着替え会社へ向かいました。社員もぞくぞくと集まりみんなでニュースにかじりついて見ておりました。倒産の原因は、バブルの際に北海道や東北のリゾート用地を次々に取得し、また転売しながら利益を上げていき、バブルがはじけたときに誰がババを引くかというマネーゲームでババを引いてしまったのであります。また、取引先銀行の第一勧銀も金が余り、目的はなんでもいいから三千億円借りてくれ、と頼みに来たという話も聞いていました。

建築・土木部では業者からの差し押さえに備えるよう現場への対応に追われていました。会社更生法が適用されるはずだから心配いらない、平静に顧客対応せよ、などと支店長からの話しもありました。その時は私自身特に何の心配もしていませんでした。

数日の後、管財人がやってきて、当分は今までどおりと変わりませんから、お客様によく説明するようにとの指示があり、朝から晩まで頭を下げてまわりました。自分でも給料は下がってもまたすぐに元通りになるだろうと思っていました。私自身、結構高給取りでしたので、金の心配はまったくしておりませんでした。

しかしながら、最終的に五千億円を超える負債総額を世の中が許すわけはありません。人員のリストラが始まりました。支払が停止されたので下請け孫受け会社もぞくぞくと倒産していったので次第に罪悪感に責められるようになってきました。一部上場取り消しとはいえ社員5千人の大企業ですから、みんな会社に残りたいと思う気持ちは一緒でしたが、リストラのノルマは容赦なく迫ってきました。一人ひとりが業務を査定され、AランクからCランクまで背番号が背負わされました。CランクからBランクへと順番に退職の打診が始まり、泣く泣く会社を去っていきました。私には最後に形式上の打診があり、会社に残るように指示されました。

去るも地獄、残るも地獄。

連鎖倒産を強いられた業者さん、申し訳ありません。自殺者も出たようです。

広島の地元の若い社員が切られていくのを見るにつけ、よそ者の私が残ってていいのだろうか、管理職として責任をとる方法は、受注をがんばって将来お返しをした方がいいのか、退職して若い人に地元で頑張ってもらうほうがいいのか、春先の爽やかな季節に、桜が満開の川沿いのベンチや記念公園や原爆ドームの前に座って何日も考えました。

4月の中旬に答えを出しました。これも運命だから、いさぎよく退職して第二の人生を始めようと。これを期にまた違った土地に行って一から出直そうと決めたのです。

私の夢は50歳までに貯蓄を蓄え、退職金と合わせてハッピーアーリーリタイアーをしてハワイ島に移住して、こじんまりとした家を300万円で建て、ヤシの木をいっぱい植えてゆったりとした生活をすることでした。そのために、ハワイ島には400坪の土地も準備済みだったのです。家の設計図もできていました。ハワイ島のヒロという町でその昔、広島出身者が入植し、苦労しながら建設した町だそうです。自然豊かで、貿易風が心地よい風を運んでくるため湿度が低く、気温の割りに涼しいとても空気の良い美しい島です。地元のマクドナルドには朝早くから老人が集まり、見た目は日本人ですが、日系2世・3世のため、日本語は話せず英語のニュースペーパーを読みながらコーヒーを飲んでいました。何度か訪問し、家族も喜んで楽しみにしておりました。しかしながら、会社が倒産した今となっては夢も同時に打ちひしがれてしまいました。ハワイでは就労できませんからお金が稼げません。

それからは早速次の移住先さがしが始まりました。気持ちを切り替え、どうせ行くならやはり南の島だ、それも観光地化された沖縄ではなく、自然が手付かずに残っている南の島を目指そうとネットで検索をはじめました。しかしながら、遊びで行くのとは違い、食べるために仕事を探さなければなりません。また、住む家も、息子の学校も考えなくてはなりません。そうしているうちに、石垣島や与論島、奄美大島、と探していたら奄美大島の笠利町で移住者募集の情報を得ることができました。さっそく町役場に電話をしてパンフレットを送ってもらいました。読み進むうちに心は決まっていました。

さあ、奄美大島だ!

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【2012/06/12 11:38】 | 第2章 東京から広島へ
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