ゼネコン倒産、南の島移住、宮崎帰郷、転職8回、メラノーマ(悪性黒色腫:10万人に1人のガン)闘病中、職場復帰、何度転んでも立ち上がる56歳のおとうさんです!死を覚悟してからは強くなった。みんなで楽しく生きよう!
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過去に書いたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第8章 【親不孝 親孝行】



前に自分の両親は嫌いだと書きましたが、自分が年をとり、また両親が平均寿命を超えてくると次第に考えが変わっていくのを感じます。親も苦労が絶えず、心労が重なり、考え方も変わってきていました。特にガンになってからは先に逝くかもしれない「命」のことをいろいろ深く考えるようになり、今まで親不孝ばかりしてきたことが頭から離れなくなってきました。

また、老人施設で働くようになり、認知症の老人との接触も多く、近い将来自分の親も、私のことを分からなくなってしまうのだろうか、寝たきりになって介護が必要になるのだろうか、呆けるまでになんとか思い出作りをしておきたい、「親孝行 したいときに親は無し。」というが、まだ間に合う。出来る限りの親孝行をしてみよう、私がいまだかつて成し遂げていなかった目標はそれでした。

特にお金に関してはそうとう親不孝を重ねてまいりました。父の会社が倒産したころ、ちょうど兄の大学受験が重なり、明治大学に合格していたにもかかわらず兄に投資する金が無く、地元の国立宮崎大学に入学せざるを得ませんでした。しかし2年後私の受験の際には、一度目は失敗し浪人を強いられてしまいましたが、東京の予備校に通わせてもらい、翌年、私立の中央大学に合格した際にはそのまま入学させてもらいました。毎月の仕送りや帰省の飛行機代も全部払ってもらい、卒業時には母から大学ノートを見せられました。5年間でかかった費用を克明に記載してあり、総額は1300万円でした。出世払いしてもらうからね、と真面目な顔で申し渡されましたが、未だに一銭も返しておりません。

奄美大島に移住する際も、父より封筒を渡され、中身は百万円入っておりました。いつか恩返ししますと頭を下げましたが、未だに一銭も返しておりません。

宮崎に帰り、マンションを購入した際にも、頭金300万円融資してもらいました。

離婚した際も、飲み代と生活費に困り百万円借りました。こればかりは借用書を書き、ボーナスの際に10万円ずつ返済してきましたが、まだ40万円残っています。



親不孝をしている間は、親は息子のことが心配で、呆けることが無いのだ、と自分勝手な理論をかまし、やりたい放題やってまいりましたが、父が足を引きづりながらよろよろと歩くのを見るにつけ、母の頭髪がだんだん薄くなっていき、顔のしわが増えるのを見るにつけ、自分の勝手な理論は成立しないことを感じました。

善は急げ、両親に残された時間はもう少ない、まずは、死ぬ順番を間違えないこと、自分は両親の死を見届けてから死ぬこと。金は返せなくとも(返そうという気持ちは持っていますが)、これだけは守ろうと誓いました。

次に、毎日電話をかけ、声かけして無事を確認すること。たまには実家を訪問し、私の元気な姿を見せること。ある日、両親が出かけているときに、玄関前の庭の草取りをして、土を耕し、レンガを並べて、自分流のガーデンを作りました。花をたくさん植えて南国情緒ただよう花壇は、帰ってきた両親も大変喜んでくれて、感謝されました。手間賃としてまた一万円もらってしまいましたが、親の喜ぶ顔はやはりうれし恥ずかしいものです。その後も季節ごとに花の苗を買ってきては植え替えをして楽しんでもらっています。

それだけが今できる親孝行です。

最近になってようやく私も父親らしくなってきました。親の苦労が解ってきました。息子ももう24歳になりましたが、今までは、「親は無くとも子は育つ」と、放任主義で何も親らしいことはしてきませんでした。自分が年をとったときに、息子は親孝行してくれるだろうか、期待はしておりません。おのずから気付くまではできないものです。自分はさんざん金で苦労をかけてきたのに、息子には残す金は無い、と宣言しています。ごめんね。こんな父親で。


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【2012/06/12 12:11】 | 第8章 親不孝・親孝行
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