ゼネコン倒産、南の島移住、宮崎帰郷、転職8回、メラノーマ(悪性黒色腫:10万人に1人のガン)闘病中、職場復帰、何度転んでも立ち上がる56歳のおとうさんです!死を覚悟してからは強くなった。みんなで楽しく生きよう!
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今まで書き溜めてきたエッセイを少しずつ紹介していきます。

 第6章 【介護のお仕事】



 そんなこんなで宮崎に帰ってきた家族三人と犬一匹でした。

 就職先は、島からネットで応募して内定をいただいた地元の住宅メーカーに決まっていたので、さっそく出社し、営業を始めました。ゼネコン時代の大企業相手とはちがい、個人の顧客を相手にセールスするのは至難の技でありましたので、毎日めげながら弱音を吐きながら、必死になって働いておりました。3ヶ月以内に一件受注しなければクビだと言われて、あきらめそうになった頃営業テクニックが飲み込めてきたので、期限内に一件受注することができました。ホッとしたのもつかの間で、その月の給料の支払が二日遅延することになったので、この会社は資金繰りが危ないと察し、自ら辞表を提出いたしました。あとで同僚に聞くと、翌月から給料が払えず、3ヵ月後に倒産、社長は家族で夜逃げしたそうです。

 次は、宮崎のハローワークで紹介を受け、一回の面接で合格した労働組合の事務職でありました。ゼネコン時代に東京支店(新宿 従業員数500人)で組合の事務局長をやった経験もありましたので、少しは自信を持っていけそうでしたので、何のためらいも無く飛び込んだのですが、現実は少々違っておりました。振動病や塵肺の病気にかかった人たちの実証をとり、裏づけをしたうえで労働基準監督署に労災を申請するという業務であります。加害者側から被害者側に180度転換したわけです。わがゼネコンが加害者であったと言う人たちも多く、熊本での塵肺裁判の際には、被害者側弁護士が私の過去を知って、名刺を差し出し、ぜひ証言者になって欲しいと要請を受けました。

 しかしながら、被害者の皆さんも全員が本当の病気を発症していたのか、グレーな部分も多く、勝ち取った労災保険料のかなりの割合を組合が手数料として徴収していたのも不信感があり、だんだん自分の正義感に自信が持てなくなってまいりました。認定を受けた人たちは動かないはずの手で高級車を乗り回し、昼はパチンコ、夜はフィリピンパブに入り浸りの毎日です。ごり押しで認定を勝ち取った業績が認められてからは、事務職はほとんど無くなり、次期書記長を頼むと見込まれ、監督署相手に直談判したり、100人集会と称して、旗と横断幕をみんなに持たせて、監督署を取り囲み、ハンドスピーカーを手に、「○○さんを認定しろー!」とシュプレヒコールを一時間叫びまくる、という役割になってきたのです。皆さんどうですか?できますか。私は仕事とはいえ、いやでいやでたまりませんでした。よくもまあこの仕事をハローワークが斡旋したものです。6ヶ月で辞表を提出し、後日ハローワークに実情を説明しに行きました。窓口担当者も実態までは知らなかったと同情してくれて、退職理由はすんなり了承され、次の仕事を斡旋してくれました。

 次は外資系の損害保険会社です。思い出したくも無いので詳しくは書きませんが、保険会社のやり口というものをよーく知りました。簡単です。お客さんの心配不安をさんざんあおっておいて、一気に、大丈夫ですよ、この商品に入れば、と落とすのです。統計上契約期間内に死亡する人は5%にも満たないので、会社は丸もうけです。駅前の一等地に保険会社が乱立しているので一目瞭然でしょう。セールストークも2ヶ月福岡で缶詰にされて、毎日毎日教官から罵倒されながら必死に暗記しました。ああいえばこういう、すべてのパターンが身につき、宮崎支店初の大口契約を1本取って一年半で辞表を出しました。勝ち組は独立して店を出し、高収入で宮崎の飲み屋街で大盤振る舞いをしているようです。私は負け組を選びました。

付け足しておきますが、実際に事故に遭われた方々は、保険に入っておいて本当に良かった、と大変感謝されましたし、わたしも後日、ガンになったときにはがん保険に入っておけば良かったと後悔することになるので、やはり保険は必要です。 

次は大工見習いであります。

 大学卒業という肩書きは、今や何の意味もないと悟った私は、手に職を付けることを考え始めました。そしてハローワークでたまたまポリテクセンターの木工技術取得コースの募集に目を留め、すぐに応募いたしました。これもまた試験があり、倍率は2~3倍でしたがうまくクリアーすることができ入学式を迎えることができました。

 六ヶ月間の研修と実習をしながら、最終的には木造家屋を1件完成させられるだけの技術を身につけることが目標でありました。20人の仲間たちは20代から50代の男性と女性といったいろいろな世代が集まっており、同じ目標のもと互いに協力し合っているうちに全員が親しい同士になっていきました。月に一度は居酒屋で乾杯し、お互いの情報交換しながら有意義な時間を過ごした記憶は今だに忘れられません。とても大事な仲間たちです。

木材加工、箱や小物入れ造り、大工道具の手入れや、かんなの刃とぎ競争などして楽しい毎日でした。木造家屋造りは、CADで図面を引きながらの本格的なもので材料加工から組み立て、フローリング・内装仕上げまで色々な技術を教わりながらついに完成することができました。みんなうれしくて、感動し、屋根に登って記念撮影をいたしました。

 卒業前の2ヶ月前からは就職活動も始めなければなりません。募集要項が掲示板に張り出され、次はどんな会社に勤めようかな、職種はどうだろうと仲間同士真剣に探して、面接に向かったりしていたのです。同時に訓練校からも、人材紹介情報が宮崎の企業対象に行われておりました。ある日教官から呼び出しを受け、ある税理士事務所から、面接の要請があったことを伝えられました。めったにない逆指名です。木工コース訓練生でしかも簿記3級しか持っていない自分になんで指名がきたのだろうと思いながら、面接を受けにいきました。

 実は私はその頃には、自分の人生これからはホームセンターに就職して技術を生かそうと思い、就職に有利になるように通信講座でDIYの資格取得を目指していたのです。

 面接の日には教習を休んでよいことになっていたので、半年ぶりに作業着からスーツに着替え、指名のあった税理士事務所を訪問いたしました。行ってびっくり、見てびっくりの事務所でありました。南国庭園に白亜の鉄筋コンクリートビル、従業員も20名という宮崎でも一番の税理士事務所でありました。何で私が・・・。

 優しい笑顔と鋭い目つきのとても紳士的な所長さんに直接面接していただきました。私の履歴書を見て、趣味の観葉植物や南の島移住経験、1級船舶操縦士の資格、大手ゼネコンでの営業経験、付録の簿記3級、生保・損保の資格等が所長さんの目にとまったようでした。話しをするうちに気に入っていただき、その場で内々定をいただき、笑いながら、試験を受けてみるかね、といわれましたが自信がありませんと応え、試験は免除していただきました。2回目の面接で内定、3回目で合格をいただきました。訓練校の卒業を待たずに就職がきまり、すぐに税理士事務所への出勤がはじまりました。卒業式の日だけ休みをいただき、卒業証書を交付していただきました。

教官からは、こんな逆指名での優良企業への就職は初めてだと大変喜んでいただき、頑張るよう励ましをうけました。

 肩書きは渉外担当となっておりましたが、一般の職員と同じように顧客の帳簿監査や決算書作成もありましたし、何でも屋であり、庭園の管理や、リゾート地にある研修所の管理や、お客様を招待したときのバーベキュー段取り係り、プレジャーボートの清掃・運転、傾いた企業の資金繰りや建て直し、等々の仕事をこなしていきました。年末のクリスマスパーティーでは宮崎で名門の宮崎観光ホテルでの準備から司会まで任され、大好評をうけました。それもそのはず、ゼネコン時代には、起工式・上棟式・竣工式などの式典が繰り返し行われ、そのたびに司会をしておりましたから、司会には自信があったのです。また、先生は南九州税理士会の会長をされていらっしゃったので、お客様も百人以上の規模で開催されておりました。

 ある時先生に、こんなに投資を続けていたら、事務所が傾きますよ、と真剣に進言申し上げると、私は若い頃、結核で何年も患っていた。一度死んだ人間なんだよ、一からスタートしたのだから、失敗すればまた、一から始めればいいのさ、と淡々としかも鋭い目つきで応えられました。

 事務所はつぶれるどころか、それからもどんどん拡大路線に戦略を展化していき、福祉施設を経営したり、レストランの経営、マンション経営と、成功をおさめるにいたいったのです。ものすごい気迫の先生でした。また奥様も苦労を共にされてきており、従業員に対する気配りも大変立派なもので、夫婦揃って人格者であり、今でも尊敬しております。

 給料も、宮崎ではトップクラスに入るほどで、忙しさを除けば申し分ない職場でありました。

 しかしながら、そんな生活もまたまた破綻する日がきたのです。

 1年ほど経ったある日、妻から別居の話しが出てきたのです。息子が高校を無事卒業し、航空自衛隊に入隊し、落ち着いてきたのをきっかけに、いままでの私に対する苦労が一気に爆発したようです。もう、私の面倒は見たくない、顔を合わせるのも嫌だ、お金もマンションもいらないから、すぐに出て行きたい。と最後通牒を突きつけられました。埼玉から義父が飛んできてなだめたり、私の母が土下座して謝ったりしましたが、どうしようもありませんでした。妻は自分で自分の怒りを増幅し、身体ひとつで出て行きました。私も短期が出て、離婚届に印鑑を押すよう求め、すんなりと離婚は成立しました。

 あまりに突然のことで、私の頭は、裏切りや、反省や、寂しさや、不安、怒り、開き直り、もどかしさ、などの葛藤が渦巻き、何も手に付かなくなってしまいました。心療内科を受診し、急性パニック障害と抑うつ症状と診断され、全治2ヶ月を言い渡されました。やっとの思いで先生に手紙を書き、退職願を朝早く誰もいないときを見計らって事務所に出向き、郵便受けに提出させていただきました。5月の早春の頃でした。先生、みなさん、本当に申し訳ありませんでした。その後、後始末にどんなに苦労されたことでしょう。本当にすみませんでした。

 それからは毎日マンションに閉じこもり、安定剤と睡眠薬と酒の毎日が続きました。死んだらどんなに楽だろうと、死ぬ方法ばかり考えたり、家のローンをどうしようとか、生活費をどうしようとか、現実的なことを考えたり、もうどうにでもなれ、と自暴自棄になり、毎晩飲み屋街に出向いてはスナックで身の上を話し、同情を引いたりして荒れた毎日を過ごしておりました。

 3ヶ月ほどそんな生活をしながらも、おなじみのハローワークに通い始め、ある日目に付いた老人施設の統括マネージャーという職種に興味をひかれ、応募することにしましたが、医者の就労許可証が必要ということで、証明書を書いてもらい、受験しました。私の一歳年上の女理事長でしたが、またまた合格してしまいました。どうも、第一印象が良いようで、いつも合格してしまいます。自慢話になってしまいますが、長年の間に身についた、落ち着きと、笑顔が相手に好感を与えているのだと思います。

 9月から出勤し、小規模多機能の家とデイサービスの両施設を担当することになりました。2級ヘルパーは奄美で取得していましたが、実践は始めての経験でしたので、両施設長(女性)からは目の上のたんこぶに映っていたようで、毎日注意ばかり受けておりましたが、できるだけ二人を避けてうまいことこなしておりました。利用者の老人たちも人生の大先輩でありますので、学ぶこともたくさんあり、レクレーションをしたり、運動、体操、輪投げ、ジェスチャー、玉入れ、お絵かき、大正琴、歌あり、笑いあり、涙ありの楽しい毎日でした。夜勤もするようになり、一晩中耳をすませ、小さな音にもすぐ反応し、認知症の利用者が徘徊や、転倒、失禁等していないか、また、熱発はないか検温しながら、神経をすり減らしながら、よく働きました。百歳近いおばあちゃんと添い寝も何度もしましたし、ごついおじいちゃんに暴力を振るわれたりもしましたが、利用者さんに何事も無く朝を迎えるその瞬間がとても好きでした。

 そんな幸せな日々も長くは続きません。ご存知のとおり、またまた不幸はやってきます。

 理事長と秘密の交換日誌を交わしていたのですが、ある日、その日誌を施設長に盗み見られ(女の社会は怖い怖い)、私の給料が施設長より1万円多いことが発覚してしまい、両施設長は理事長室に直談判に行ったのです。猛烈な抗議を受け、理事長も二人を失うよりは、私の降格を決断せざるを得ませんでした。翌日からはヘルパーとして勤務することになり、今まで以上に厳しい仕打ちをうけ、何かするごとに注意ばかりされておりました。それでも、利用者さんの笑顔が見たくて、仕事は続けておりました。

 また、ヘルパー仲間のおばちゃんや若いお姉ちゃんとも仲良くなり、信頼関係は日増しに良くなっていったのです。連携もうまくいき、送迎や、レクも覚え、おむつ交換や入浴介助、車椅子の散歩、気分転換のドライブなど楽しみも増えていきました。そして、ヘルパーの抱える悩み事も次第に理解できてきて、重労働の割りに賃金が安かったりいわゆる6k、きつい・汚い・危険・給料安い・休暇とれない・あとひとつなんだっけ、そうそう、結婚できない、がありました。

 ヘルパーみんなの意見をまとめ、ある日、ミーティングの日に、数ある問題点を文章にして施設長に提案いたしました。共同作業においては上から目線を止めて共労のケアに務めましょうという趣旨の問題提議でした。最下層のヘルパー職からの提案がよっぽど気に障ったのか、翌日すぐに理事長室に呼ばれ、どういうつもりか詰問され、組合いつくりと勘違いされ、運営主体である東京の会社からも吉田を排除せよとのお達しがあったようです。退職願いはすぐに受理します、と理事長から鬼の形相で申し渡され、翌日が夜勤だったので、他の人に迷惑を掛けないように夜勤までは勤め上げて、翌朝会社を去りました。7回目の転職も終わりました。9ヶ月でした。

 

 話は変わって、別れた妻の話しになります。

 家を飛び出した後、アパートを借りてミニダックスのワンコと暮らしていました。なぜか実家には帰らず、宮崎に残ったのです。とにかくパートだけでは生活できないので、昼はパン屋、夜はコンビニのアルバイトをしていました。家庭裁判所で名前を旧姓にもどし、携帯の番号も変えたので、連絡不能になりました。

 福岡の息子とは連絡をとりあっていたので、息子を通じて、犬に逢いたいと伺いを立てました。迷った挙句に、近くの公園で逢わせてもらいました。しっぽを振って喜ぶ犬に涙を我慢するのがやっとでした。妻は相変わらずそっけない態度で、30分ほどでじゃあね、と帰っていきました。

 それから、月に一度だけ犬に逢わせてくれるようお願いし、1年間妻と犬に会いに行きました。アパートにも30分だけ入れてもらえるようになりましたが、それはそれは狭くて汚い生活で、隣の声はつつぬけだし、窓を開ければ外からのぞかれるし、ベランダもガラクタが放置してあり、布団は敷きっぱなし、ヨーグルトのカップをたばこの灰皿代わりに使っているような、まるで、上京しただらしない大学生の部屋のようでした。あまりの悲惨さと、生活に疲れきっている様子に私も耐えられなくなり、自責の念が沸いてきたのもあり、家に帰ってこないか?と提案しましたが、妻はかたくなに拒絶しました。

 春の訪れと共に、凍り付いていた妻の心も少し溶けかかってきたのか、お試し同居を1ヶ月してみることになりました。帰ってきた妻の第一声は、「やっぱり私が選んだマンションはいいわ」でした。久しぶりに夫婦と犬一匹がそろいました。お試しは功を奏し、復縁することになりました。その時ちょうど退職願を出したばかりでした。

 次の職を探してまたハローワークに通い始めました。妻は昼だけのパートにもどり、家賃の1万円と食費を負担することで契約が成立しました。残りはローンと電気・ガス・上下水道・電話・固定資産税・NHK受信料・ビール・焼酎代・マンション管理費・親への借金返済・等々私の負担です。もしまた離婚することがあるかもしれないと思い、財布はそれぞれが自己管理することに決めたのです。早く仕事を探して職につかないと貯金も底をついてきました。

 前職で介護の仕事に興味が沸いてきたので、福祉関係の仕事を重点的に探しました。もうすぐ50歳です。体力の衰えは気力で頑張りぬこうと固く決心いたしました。

 デイサービスや小規模多機能型の方が比較的楽だよ、とのヘルパー仲間からのアドバイスはいただいておりましたが、あえて厳しい特別養護老人ホームを選びました。宮崎でも一・二を争うきつい職場として有名な○○○○○という特老ですが、応募した2時間後に面接に来てくれということで、急ぎスーツに着替えて、パソコンに入れてあった履歴書をプリントして施設に向かいました。福園長が面接してくれ、1週間後に合格をいただきました。

 それからの3日間、3週間、3ヶ月は激務に次ぐ激務で、初めての夜勤明けには死にそうなほど疲れ、頭が真っ白になり、めまいはするは、思考停止にはなるはで、今日限りで辞めようとさえ真剣に考えました。しかしながら、ここで使い物になれば、どこの施設でも使える、という噂を思い出し、逆にここで辞めたらどこでも使い物にならないと奮起してなんとか一日一日を耐え抜いて頑張りました。百人の利用者を抱え、介護度も4~5と、噂以上に非常に厳しい職場で、しかも、女社会でありますので、私も「寮母さん」と呼ばれながら、トイレ介助、おむつ交換、食事介助、見守り、レクレーション、おやつ介助、洗濯、寝たきりの人の体位交換、病人の世話、など次第に慣れてまいりました。

 50歳を迎え、若い人たちにも負けないように、気力で働き、体力をカバーしていきました。初めのうちはやはり毎日注意ばかり受け、辞めた方がいい、とか、やり方が雑でなっていない、とか、もうダメだと何度思ったことでしょう。でも、それを支えてくれたのもやはりヘルパー仲間でした。年の差はもう関係ありません。ケアという同じ目標に向かって質の向上をはかるのですから、ベクトルは同じです。だんだん仕事も覚えて、仲間とのコミュニケーションも良好になっていきました。特に若い人たちからは、「とうちゃん」「オヤジ」「クソじじい」と親しく呼んでもらえるようになり、力を与えてもらいました。なぜかしら、利用者のおばあちゃんたちからも好かれるようになり、頬ずりされたり、握手してもらったり、キスしてもらったりで、楽しみも増えてきました。



 介護福祉士受験



 こうなると、老人福祉は自分の天職かもしれないと考えるようになり、勉強をし直しはじめました。通算3年が経っておりましたので、介護福祉士を目指し、1月の試験に備え、8月頃からユーキャンのテキストと過去問を主体に受験勉強を始めたのです。しかしながら51歳になっていた私には、仕事と勉強の両立は非常に困難なものでした。覚えたそばから忘れていくのです。日勤の日は疲れ果てていますので、勉強はおもに夜勤明けの日の夜中に集中してやりました。

 平成23年1月の筆記試験は鹿児島で実施される予定でした。前泊を希望しておりましたが、宿が予約で一杯だったため、朝一番の特急列車で行くことにしていました。その前日のことです。鹿児島との県境にある新燃岳が突如噴火したのです。噴火による噴煙で交通手段は寸断されてしまいました。受験して落ちるならともかく、試験場にたどり着けずに落ちるのは耐えられません。

 当日、万が一電車が不通になることを想定し、その時はタクシーをチャーターしてでもたどり着いてやる、と心に決め、懐に10万円を用意し、宮崎駅に向かいました。電車は動いておりました。無事鹿児島の試験会場に着いた頃には珍しく雪が舞っていました。寒さに弱い私のことですから、ホカロンと女性用防寒タイツを履き、寒さ対策は万全のはずでした。ところが試験場に入ると、暖房が弱いせいか、はたまた効いてないのか、冷蔵庫のような寒さだったのです。手足をさすりながら試験開始を待ちましたが、その間も身体が冷えていくのが感じられました。試験開始と同時に右足が痙攣を起こし、狭い机の下で一生懸命伸ばしたり、曲げたり、もがきながら午前の部95分を闘いぬきました。寒さのあまり、便意と尿意が代わる代わる襲ってきて、とうとう昼ごはんは抜いて午後の部に臨みました。午後は百十五分です。水分を摂らなかったのに尿意は突然やってきました。必死にトイレを我慢して、うつろな状態で試験問題に取り組みました。

 さんざんな思いをして帰途につきながら、また来年もこんな思いをしなくちゃならないのかなぁ、とか神様受からせてください、とか祈る気持ちで帰宅したのでありました。施設の仲間からは「とうちゃん頑張って」と1メートル四方の大きな応援色紙をもらっていたので、お守りに持ってきておりましたが、みんなに合わす顔が無いなと、がっくりきておりました。深夜にネットで自己採点したところ去年のボーダーを下まわっていたので、八割がたあきらめていたら、しばらくして合格通知が届きました。とても嬉しかったです。職場にも合格おめでとうの張り紙がしてありました。

 次はいよいよ実技試験です。DVDの過去問を繰り返し見ながら、とにかく声かけ、そして、患側をまちがえないこと、と先輩方に指導を受けながら、また、実技の模擬試験を施設で理事長・園長先生・副園長先生・主任・副主任・ケアマネ・OT・看護部長の見守る中で試された上で、いろいろアドバイスを受けて試験に挑みました。まだまだ寒かったのですが、職場の制服を着ると、気持ちも引き締まり、とにかく目線の高さを合わせ、声かけを心がけ、残存能力を活かしながら、問題を一つ一つこなしていきました。5分の持ち時間に5秒ほど足りませんでしたが、今回は受かったような気がしました。職場の模擬試験の方が緊張しました。3月末に介護福祉士国家試験合格証書が届き、早速登録いたしました。

 これからの私の人生は福祉だ、と決めました。2年後にはケアマネに挑戦するぞ!



 と意欲満々で意気揚々と、順風満帆な介護人生を楽しみ始めたときに、やはり、不運がやってきました。

 ガンになりました・・・・・・・・・・・・・。
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【2012/06/12 11:57】 | 第6章 転職・転職・・
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やおき
yossy610さん
初めまして

この記事一気に読んでしまいました
色々と大変だったようですね

私はパワハラや労使問題で転職を繰り返し
現在休職中の身
(ウチの妻も呆れていることと思います)
営業一筋でやってきたやおきは
現在も営業職で職探し中
営業は天職だと思っているので
これからも頑張っていきたいと思っています。
yossy610さんも頑張ってくださいね。

やおき様へ
yossy610
 コメントいただき嬉しいです!

 やおき様も七転八倒されていらっしゃるようで(笑)

 なるようになるさぁ~ですよね!

 ネコちゃん可愛いですね、お互い頑張りましょう!

 今後ともよろしくお願い致します!

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